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主の祈りⅢ [礼拝メッセージ]

5月6日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
主の祈りは、まず神を誉めたたえ、神を見上げることに始まり、次に自分たちのことにうつる。その第一番目にあげられているのは「日ごとの糧」を求める祈りである。イエス様は私たちが肉体の弱さを持っていることをご存知で、私たちの日常を支えるための食料や、健康、仕事といった必要のために、まず祈って良いというのである。
しかしマタイ6:25~34を見ると、神が私たちの必要を知っておられるのだから、心配は無用だと書かれている。それならなぜ祈るのだろう?それは、すべての恵みと祝福は神からきていることを覚えるためである。だから、自分の必要のために大いに祈って良い。ただし「私たちの日ごとの糧を」とあるように、周りの人たちのためにも祈っていくこと。そして、自分の利益のためだけでなく、ぜひ「神の栄光のために」という目的を持って祈ってほしい。
次の祈りは「私たちの負いめをお赦しください」である。負いめ(罪)は借金と同じように、返さなければなくならない。私たちは神の前に、到底返すことができない額の借金をもっている。それを私たちに代わって返済してくださったのがイエス様であり、その十字架による贖いに感謝して同意する(信じる)人は、借金が帳消しになるのだ。
ではなぜ、信じた後も「負いめをお赦しください」と祈るのだろう?それは、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。」(ヨハネ13:10)とあるように、足(日々)の汚れはおとす必要があるということ。私たちは、日々罪を犯してしまうからだ。
最後は「試みに会わせないように」という祈りである。試練にはふたつの種類があり、ひとつは私たちの成長につながるもの。聖書の中の信仰の勇者たちも、このような試練を体験しており、これは必要なものである。しかしもうひとつは、私たちを押し潰し、破壊してしまうような、大きすぎる試練である。この祈りは後者に対するものであり、このような試練からは守られるようにと祈ることが必要なのだ。
私たちは本当に弱く、自分の力では神の前に正しく生きることができない。そんな私たちのために、主は祈りを教えてくださった。一人一人が、この主の祈りを自分のものとしていってほしい。
2012-05-13 21:02
主の祈りⅡ マタイ6:9~10 [礼拝メッセージ]
4月29日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

御名とは何か? その方の人格、その方そのものを表すものである。 神様はご自分の名前を持ってご自分がどんなものであるかを示された。 御名には神様の素晴らしさ、属性を全て含んでいる。 いろいろな神とは全く違うが、どこが違うのか? それは、創造主なる神様であることだ。 私たちは創られた存在である。(ローマ1:19~20) 創られた自然、神様の御業、 私たちの思いをはるかに超えた摂理、ご計画を通して、神様をあがめていただきたい。
イエス様の公の生涯の宣教の第一声はマルコ1:5である。 聖書のテーマは神の国はあり、イエス様ご自身が、王たるお方で神の国を支配しておられるということだ。 私たちが罪の奴隷となっているところに、神様がイエス様を救い主として送ってくださった。 そして、神の国が再開されたのだ。 その神の国に入るためには悔い改めること、生き方、考え方を変えることである。 神の国が完成するのは、イエス様の再臨の時である。御国をきたらせたまえというのは、二つの意味がある。 一つはイエス様が早く再臨して、神の御国を完成させて欲しいということだ。 罪が入ってきたことによって、自然までもが人間に牙をむくようになった。 大自然も被造物も、元の状態に戻して欲しいと待っている。(ローマ8:21~22)
もう一つの御国の意味は、御国の拡大である。 私たちが天の御国に入ることを喜ぶだけでは意味はない。 難破船に乗っていて救われたような私たちは、まだ沈みかかっている人々を、イエス様と共に助けることが使命である。
「みこころが地でも行われますように。」が、祈りの中心である。 祈りは、自分の思いを神様に押し付けるのではなく、願っておられることに、私たちを合わせることである。 私たちの願いが神様と一致するなら、必ず祈りは実現すると言っておられる。(Ⅰヨハネ5:14)
祈りの模範はイエス様ご自身である。 マタイ26:36~39、42と参考にしていただきたい。 イエス様はこの十字架にかかりたくありませんとおっしゃった。 全く罪を知らないお方が罪にまみれ、その罪を処理しなければならない時、三位一体の神様と切り離されるという恐怖、まことの神様から見捨てられるということが原因であろう。 だが、イエス様は少しずつ祈りの中で、整えられていく。 神様の御旨はご自分のひとり子の命にかえても、私たちの命を救いたいということである。 そうならば、私はどんなに苦しくても、それに従いますというイエス様の従順な祈りがあったからこそ、私たちは救われたのだ。
「御名」とは神様ご自身のことであり、「あがめる」ということは、まことの神様は他の神様とは違うと認めほめ讃えること。 「御国をきたらせたまえ」とは私たちが救われただけではなく、御国の拡大のために神様の思いと一致する祈りを捧げること。 なかなか難しいことがあるかもしれないが、「あなたの御心に従う力を与えてください。」と、祈ってはよいのではないか? 是非、そのような祈りを捧げて、神様に用いられる私たち、教会、家の教会とさせていただきたい。
【主の祈り】
天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。
アーメン。

御名とは何か? その方の人格、その方そのものを表すものである。 神様はご自分の名前を持ってご自分がどんなものであるかを示された。 御名には神様の素晴らしさ、属性を全て含んでいる。 いろいろな神とは全く違うが、どこが違うのか? それは、創造主なる神様であることだ。 私たちは創られた存在である。(ローマ1:19~20) 創られた自然、神様の御業、 私たちの思いをはるかに超えた摂理、ご計画を通して、神様をあがめていただきたい。
イエス様の公の生涯の宣教の第一声はマルコ1:5である。 聖書のテーマは神の国はあり、イエス様ご自身が、王たるお方で神の国を支配しておられるということだ。 私たちが罪の奴隷となっているところに、神様がイエス様を救い主として送ってくださった。 そして、神の国が再開されたのだ。 その神の国に入るためには悔い改めること、生き方、考え方を変えることである。 神の国が完成するのは、イエス様の再臨の時である。御国をきたらせたまえというのは、二つの意味がある。 一つはイエス様が早く再臨して、神の御国を完成させて欲しいということだ。 罪が入ってきたことによって、自然までもが人間に牙をむくようになった。 大自然も被造物も、元の状態に戻して欲しいと待っている。(ローマ8:21~22)
もう一つの御国の意味は、御国の拡大である。 私たちが天の御国に入ることを喜ぶだけでは意味はない。 難破船に乗っていて救われたような私たちは、まだ沈みかかっている人々を、イエス様と共に助けることが使命である。
「みこころが地でも行われますように。」が、祈りの中心である。 祈りは、自分の思いを神様に押し付けるのではなく、願っておられることに、私たちを合わせることである。 私たちの願いが神様と一致するなら、必ず祈りは実現すると言っておられる。(Ⅰヨハネ5:14)
祈りの模範はイエス様ご自身である。 マタイ26:36~39、42と参考にしていただきたい。 イエス様はこの十字架にかかりたくありませんとおっしゃった。 全く罪を知らないお方が罪にまみれ、その罪を処理しなければならない時、三位一体の神様と切り離されるという恐怖、まことの神様から見捨てられるということが原因であろう。 だが、イエス様は少しずつ祈りの中で、整えられていく。 神様の御旨はご自分のひとり子の命にかえても、私たちの命を救いたいということである。 そうならば、私はどんなに苦しくても、それに従いますというイエス様の従順な祈りがあったからこそ、私たちは救われたのだ。
「御名」とは神様ご自身のことであり、「あがめる」ということは、まことの神様は他の神様とは違うと認めほめ讃えること。 「御国をきたらせたまえ」とは私たちが救われただけではなく、御国の拡大のために神様の思いと一致する祈りを捧げること。 なかなか難しいことがあるかもしれないが、「あなたの御心に従う力を与えてください。」と、祈ってはよいのではないか? 是非、そのような祈りを捧げて、神様に用いられる私たち、教会、家の教会とさせていただきたい。
【主の祈り】
天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。
アーメン。
2012-05-07 15:05
「主の祈り」 マタイ6:9~10 [礼拝メッセージ]
4月22日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

昨年の東日本大震災で起きた原発事故の施設に一番近い教会の牧師、佐藤彰先生は自分が体験した地震と津波と原発事故の中で普段なら目に見えない色々な物が見えてきた、そしてその中でこそ知ることの出来る様々なことがあった、と証ししてくださった。
私達の思うところ、願うところを遥かに超えて施してくださる神様の恵みが確かにある。
私達はどのような思いを持って、全能の神様に祈っているのだろう。
イエス様がこのように祈りなさいと教えてくださった 主の祈り。 「天にいます我らの父よ、御名があがめられますように」と神様に対する祈りから始まる。
しかし私達は神様を忘れ自分の願いばかり求め、祈りにおいても自己中心になっている。もちろん自分の願いを祈る事は大切なことだが、先ずまことの神様を心の中心に置き、 イエス様に喜ばれる祈りをする必要があることを忘れてはいけない。祈りによって私達は神様と交わり、祈りによって成長してゆくからだ。
イエス様が模範を示された 主の祈り、神様の御旨を大切に学び取ってゆこう。
しかし私達の祈りは人から良い評価を受けたい、良く見られたいという弱さを持つ。
特に祈祷会で、礼拝で代表して祈る祈りは、自分の関心は誰に向いているか、誰に対して祈っているのかを常に意識して、まことの神様に栄光が帰すように、神様の栄光だけが光り輝くように願い祈ろう。
また祈るとき聖書や、みことばを通して神様に思いをめぐらして心を整え、詩と賛美と霊の歌とによって心から神様に向かって叫ぼう。
どのように祈ろうかと思い悩む心配はいらない。イエス様が私達の祈りを取り次ぎ、ご聖霊が助けてくださる。イエス様の名によって父なる神様と呼べることは、なんと感謝なことだろう。
私達は神の家族として自分を愛するように隣人を愛し、共に神様に仕えてゆこう。
イエス様に習い 主の祈り によって父なる神様に喜んでもらえる私達でありたい。
【主の祈り】
天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。
アーメン。

昨年の東日本大震災で起きた原発事故の施設に一番近い教会の牧師、佐藤彰先生は自分が体験した地震と津波と原発事故の中で普段なら目に見えない色々な物が見えてきた、そしてその中でこそ知ることの出来る様々なことがあった、と証ししてくださった。
私達の思うところ、願うところを遥かに超えて施してくださる神様の恵みが確かにある。
私達はどのような思いを持って、全能の神様に祈っているのだろう。
イエス様がこのように祈りなさいと教えてくださった 主の祈り。 「天にいます我らの父よ、御名があがめられますように」と神様に対する祈りから始まる。
しかし私達は神様を忘れ自分の願いばかり求め、祈りにおいても自己中心になっている。もちろん自分の願いを祈る事は大切なことだが、先ずまことの神様を心の中心に置き、 イエス様に喜ばれる祈りをする必要があることを忘れてはいけない。祈りによって私達は神様と交わり、祈りによって成長してゆくからだ。
イエス様が模範を示された 主の祈り、神様の御旨を大切に学び取ってゆこう。
しかし私達の祈りは人から良い評価を受けたい、良く見られたいという弱さを持つ。
特に祈祷会で、礼拝で代表して祈る祈りは、自分の関心は誰に向いているか、誰に対して祈っているのかを常に意識して、まことの神様に栄光が帰すように、神様の栄光だけが光り輝くように願い祈ろう。
また祈るとき聖書や、みことばを通して神様に思いをめぐらして心を整え、詩と賛美と霊の歌とによって心から神様に向かって叫ぼう。
どのように祈ろうかと思い悩む心配はいらない。イエス様が私達の祈りを取り次ぎ、ご聖霊が助けてくださる。イエス様の名によって父なる神様と呼べることは、なんと感謝なことだろう。
私達は神の家族として自分を愛するように隣人を愛し、共に神様に仕えてゆこう。
イエス様に習い 主の祈り によって父なる神様に喜んでもらえる私達でありたい。
【主の祈り】
天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。
アーメン。
2012-04-29 09:11
松原聖書教会 [教会紹介]


松原聖書教会(ジョイファミリーチャーチ)は、大阪府松原市(大阪市と堺市のとなり)にある
キリスト教(プロテスタント)の教会です。
赤ちゃんからご高齢の方まで、
毎日曜日には200人以上が礼拝に集い、ともに真の神様を礼拝しています。
その他、各年代の会や、少人数の集いが開かれ、
楽しい交わりの時が持たれています。
興味、関心のある方はぜひおいで下さい。

教会HPはこちら
2012-04-22 22:12
ジョイファミリー文庫 2012年1学期のスケジュール [JF文庫]
新学期を迎え,ジョイファミリー文庫を再開しました。
幼児園に入園して文庫を卒業していった子もたくさんいますが,
新しくやってきたお友だちもいます。
新聞チラシを見て参加してくれた方もいました。

2012年1学期の予定は
火曜日10時30分~11時30分
4/17 通常の活動
4/24 お茶会
5/1 通常の活動
5/8 体操
5/15 通常の活動
5/22 通常の活動
5/29 お茶会
6/5 通常の活動
6/12 体操
6/19 通常の活動
6/26 お茶会
7/3 通常の活動
7/10 お茶会
7/17 体操
*体操の日は,体を動かしやすい服装でおこしください
*お茶会の日は,ケーキとコーヒー・紅茶をいただきながらの,分かち合いの時間を持ちます。
お子さんと一緒にお気軽にご参加ください。
幼児園に入園して文庫を卒業していった子もたくさんいますが,
新しくやってきたお友だちもいます。
新聞チラシを見て参加してくれた方もいました。

2012年1学期の予定は
火曜日10時30分~11時30分
4/17 通常の活動
4/24 お茶会
5/1 通常の活動
5/8 体操
5/15 通常の活動
5/22 通常の活動
5/29 お茶会
6/5 通常の活動
6/12 体操
6/19 通常の活動
6/26 お茶会
7/3 通常の活動
7/10 お茶会
7/17 体操
*体操の日は,体を動かしやすい服装でおこしください
*お茶会の日は,ケーキとコーヒー・紅茶をいただきながらの,分かち合いの時間を持ちます。
お子さんと一緒にお気軽にご参加ください。
2012-04-17 21:00
義の実践の動機と態度 マタイ6:1~4 [礼拝メッセージ]
4月8日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

この箇所でイエス様が言われていることは「良い行いは、こっそりするように」というのではなく、「人に見せる(人から評価されたり認められる)ためではなく、神からの報いを受けるために行うように」という意味である。
私たちが救われる目的が個人の救いだけならば、イエス様を信じたらすぐに天国に移されれば済む。しかしそうではなくこの地に残されるのは、イエス様の願っておられることを実現するためである。そしてその働きのために、人からではなく、神からの報いを期待するようにというのが、イエス様の言われていることなのだ。
「報い」というと、何か打算的に感じるかもしれないが、むしろ神のための働きには必ず神からの報いがあるというのが聖書の約束であり、大いに期待して良いのである。
では逆に、人から誉められたり、評価されてはいけないのだろうか?エペソ2章10節には「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」と書かれている。つまり、私たちが人から誉められたり、評価されたなら「ありがとうございます。これは主の恵みです。」と、そうさせてくださった神に栄光をお返しすれば良いのだ。
3人の子供の父親であるマケリゴット先生という方は、家族5人で車で旅行すると後ろに乗せた子供たちがケンカばかりしてうるさく騒ぐので、辟易したそうだ。ところが同じ5人乗りでも、カヌーだとケンカにならないという。車よりむしろ狭いのに、なぜだろう?それは、ただ乗せてもらっているだけの車と違い、カヌーだと、みんなで力を合わせてオールを漕ぐから。そして目的地に着いた時には、達成感と喜びを得ることができる。同じように教会生活も、お客さんでいるのではなく、一人一人がイエス様のために力を合わせていくことが大切なのだ。
自転車に乗ったことのない人が乗れるようになるためには練習が必要だが、乗れるようになってしまえば無意識にできるようになる。神のための働きも同じである。神と人と自分を愛し、そのために働くことを続けていくならば、無意識にできるようになっていく。主にあってチャレンジしていこう。

この箇所でイエス様が言われていることは「良い行いは、こっそりするように」というのではなく、「人に見せる(人から評価されたり認められる)ためではなく、神からの報いを受けるために行うように」という意味である。
私たちが救われる目的が個人の救いだけならば、イエス様を信じたらすぐに天国に移されれば済む。しかしそうではなくこの地に残されるのは、イエス様の願っておられることを実現するためである。そしてその働きのために、人からではなく、神からの報いを期待するようにというのが、イエス様の言われていることなのだ。
「報い」というと、何か打算的に感じるかもしれないが、むしろ神のための働きには必ず神からの報いがあるというのが聖書の約束であり、大いに期待して良いのである。
では逆に、人から誉められたり、評価されてはいけないのだろうか?エペソ2章10節には「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」と書かれている。つまり、私たちが人から誉められたり、評価されたなら「ありがとうございます。これは主の恵みです。」と、そうさせてくださった神に栄光をお返しすれば良いのだ。
3人の子供の父親であるマケリゴット先生という方は、家族5人で車で旅行すると後ろに乗せた子供たちがケンカばかりしてうるさく騒ぐので、辟易したそうだ。ところが同じ5人乗りでも、カヌーだとケンカにならないという。車よりむしろ狭いのに、なぜだろう?それは、ただ乗せてもらっているだけの車と違い、カヌーだと、みんなで力を合わせてオールを漕ぐから。そして目的地に着いた時には、達成感と喜びを得ることができる。同じように教会生活も、お客さんでいるのではなく、一人一人がイエス様のために力を合わせていくことが大切なのだ。
自転車に乗ったことのない人が乗れるようになるためには練習が必要だが、乗れるようになってしまえば無意識にできるようになる。神のための働きも同じである。神と人と自分を愛し、そのために働くことを続けていくならば、無意識にできるようになっていく。主にあってチャレンジしていこう。
2012-04-14 20:39
復活祭 [ウェルカムボード・礼拝堂装飾]
復活祭はイエス様の復活を祝う記念日ですが,
「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に行われるという,
移動祝日です。
2012年の復活祭は4月8日でした。
ちなみに,「イースター」という言葉は,
ゲルマン神話に出てくる春の女神の名前に由来するもので,
復活祭が春に行われることから,
この女神の祭りの習慣を取り入れたものだといわれています。

イースターエッグについて
卵はかなり古くから さまざまなところで
「新しい命や豊穣のシンボル」として扱われていたようです。
イースターエッグは,
「復活など,赤い卵と同じように ありえない」と否定したローマ皇帝の前に,
マグダラのマリヤが赤く塗った卵を持って行って証しした,
という伝説から始まったという説が有力なようです。
卵のからは「墓」を
それを割って命が出てくるということから「復活」を意味しています。
「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に行われるという,
移動祝日です。
2012年の復活祭は4月8日でした。
ちなみに,「イースター」という言葉は,
ゲルマン神話に出てくる春の女神の名前に由来するもので,
復活祭が春に行われることから,
この女神の祭りの習慣を取り入れたものだといわれています。

イースターエッグについて
卵はかなり古くから さまざまなところで
「新しい命や豊穣のシンボル」として扱われていたようです。
イースターエッグは,
「復活など,赤い卵と同じように ありえない」と否定したローマ皇帝の前に,
マグダラのマリヤが赤く塗った卵を持って行って証しした,
という伝説から始まったという説が有力なようです。
卵のからは「墓」を
それを割って命が出てくるということから「復活」を意味しています。
2012-04-09 16:31
聖句しおり [年間聖句]
教会員の1年間の指針となる「年間聖句」を
いつも心にとめていられるようにと,
『みことば書道クラブ』(教会員有志の書道サークル)のメンバーが
毎年,素敵なしおりを作ってくれます。
2012年の年間聖句も,このような手作りのしおりになり,希望者に配っていただきました。
いつも心にとめていられるようにと,
『みことば書道クラブ』(教会員有志の書道サークル)のメンバーが
毎年,素敵なしおりを作ってくれます。
2012年の年間聖句も,このような手作りのしおりになり,希望者に配っていただきました。
2012-04-09 16:28
「ミナのたとえ」 ルカ19:11~27 [礼拝メッセージ]
4月1日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

主人は10人のしもべに1ミナ(現在の貨幣価値で100万円)ずつ預け,その管理能力を計り,その結果に応じて報いを与えた。このたとえから,イエス様のしもべであるクリスチャンは,同じ賜物を与えられているが,その使い方は人によって異なることがわかる。主人は預けたものを増やそうとする忠実さをほめるが,何の努力もしない怠け者には怒る。
1人1人に与えられたミナとは何か,考えてみよう。
ルカ12:16~21に愚かな金持ちのたとえ話がある。金持ちは,豊作を見て,これで一生安泰で遊んで暮らせると思ったが,直後に神から死の宣告を受けてしまう。人の命は自分のものではなく,神様の御手の中にある。どんなに財産があっても,命の保証にならない。
一方,世界有数の富豪で石油王のロックフェラーは,50代前半に不治の病で余命1年と言われた。このとき,彼はお金の力では命をどうすることもできないと知り,財産を世のため人のために使おうと考えた。彼は財団を作り,全米に教会や図書館や慈善施設を建てた。その後,彼は90代まで生かされた。
クリスチャン全員が共通して与えられている1ミナは,命と信仰である。神様に命を与えられてからとられるまでの間,その信仰をどう活用するのかが大切である。
そのために重要なのは,①ビジョン(方向性),②志(ハート),③得意分野を生かすことである。教団の中高生を対象としたチャレンジャーキャンプは,若者の魂の救いと成長のために約20年前に始めた。たいへんなことも多いが,「小さい教会に仕えなさい」という言葉に支えられて続けてきた。参加者の喜ぶ姿,キャンプを通じて成長した若者を見てうれしく思い,志を与えてくださった神様に感謝している。
まことの神様を愛し,隣人を自分自身のように愛するためにミナを使おう。社会(仕事)・家庭・教会でミナを活用し,信仰と才覚と知恵で,忠実に用いてほしい。

主人は10人のしもべに1ミナ(現在の貨幣価値で100万円)ずつ預け,その管理能力を計り,その結果に応じて報いを与えた。このたとえから,イエス様のしもべであるクリスチャンは,同じ賜物を与えられているが,その使い方は人によって異なることがわかる。主人は預けたものを増やそうとする忠実さをほめるが,何の努力もしない怠け者には怒る。
1人1人に与えられたミナとは何か,考えてみよう。
ルカ12:16~21に愚かな金持ちのたとえ話がある。金持ちは,豊作を見て,これで一生安泰で遊んで暮らせると思ったが,直後に神から死の宣告を受けてしまう。人の命は自分のものではなく,神様の御手の中にある。どんなに財産があっても,命の保証にならない。
一方,世界有数の富豪で石油王のロックフェラーは,50代前半に不治の病で余命1年と言われた。このとき,彼はお金の力では命をどうすることもできないと知り,財産を世のため人のために使おうと考えた。彼は財団を作り,全米に教会や図書館や慈善施設を建てた。その後,彼は90代まで生かされた。
クリスチャン全員が共通して与えられている1ミナは,命と信仰である。神様に命を与えられてからとられるまでの間,その信仰をどう活用するのかが大切である。
そのために重要なのは,①ビジョン(方向性),②志(ハート),③得意分野を生かすことである。教団の中高生を対象としたチャレンジャーキャンプは,若者の魂の救いと成長のために約20年前に始めた。たいへんなことも多いが,「小さい教会に仕えなさい」という言葉に支えられて続けてきた。参加者の喜ぶ姿,キャンプを通じて成長した若者を見てうれしく思い,志を与えてくださった神様に感謝している。
まことの神様を愛し,隣人を自分自身のように愛するためにミナを使おう。社会(仕事)・家庭・教会でミナを活用し,信仰と才覚と知恵で,忠実に用いてほしい。
2012-04-09 16:24
「求めなさい。そうすれば」マタイ7:7~11 [礼拝メッセージ]
3月25日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

求める相手は誰か、なぜ求めるのか? 天の父なるまことの神様だから、私たちに最善のものを与えたいと願っておられる。 私たちは、弱い存在であり、足りなさを知っているから、願い求めるのだ。 利己的な人間でさえ 愛する 者には何でもしてあげたいと思うのに、神様がそれ以下である訳がない。 神様が私たちが求めるとき、その求めに応えてあげたいと思うのは当然ではないだろうか。
私たちが本当にそれが必要か必要でないか、判断がつかないことがある。 私たちにとってよくないものは与えてくれない。 何でもできるだけ、自分のリクエストを出して祈ればいい。 神様がふさわしい 祈りに変えてく ださる。 イエス様も砕かれて変えられていった。 だから、祈っていいのだ。
神様は求めに現実に導いてくださる。 また、祈りがきかれる神様の時がある。 自分の望んでいる事と、神様の道は違うとみこころの中で示されることもある。 が、何でも求めればいい。 必要なこと、一番ふさわしいことが、祈りの答えとして与えられる。
私たちは、積極的な生き方が求められている。 「求め続けよ。探し続けよ。たたき続けよ。」と。 しつこく諦めないで、アグレッシヴになんとかその道が開かれるようにと。 ヘルシンキのど真ん中に教会を建てたいという思いを与えられた人がいた。 その場所には、大きな岩があったのだが、二人の設計士がその岩をくり抜いて教会にするというアイデアが浮かび、実現した。 これが有名な「岩の教会」である。 諦めないでなんとかならないかと求めた結果だ。 また、この二人の設計士は有名になり、仕事がどんどん入ってくるようになる。 「求めよ、さらば与えられん。」だ。 神様は私たちに良いものを与えようと待っておられる。 が、真剣に祈らないと与えてくださらない。 なぜなら、簡単にきかれると有り難さがわからないからである。 本当に求めるものを、はっきりと神様に持っていきたい。

求める相手は誰か、なぜ求めるのか? 天の父なるまことの神様だから、私たちに最善のものを与えたいと願っておられる。 私たちは、弱い存在であり、足りなさを知っているから、願い求めるのだ。 利己的な人間でさえ 愛する 者には何でもしてあげたいと思うのに、神様がそれ以下である訳がない。 神様が私たちが求めるとき、その求めに応えてあげたいと思うのは当然ではないだろうか。
私たちが本当にそれが必要か必要でないか、判断がつかないことがある。 私たちにとってよくないものは与えてくれない。 何でもできるだけ、自分のリクエストを出して祈ればいい。 神様がふさわしい 祈りに変えてく ださる。 イエス様も砕かれて変えられていった。 だから、祈っていいのだ。
神様は求めに現実に導いてくださる。 また、祈りがきかれる神様の時がある。 自分の望んでいる事と、神様の道は違うとみこころの中で示されることもある。 が、何でも求めればいい。 必要なこと、一番ふさわしいことが、祈りの答えとして与えられる。
私たちは、積極的な生き方が求められている。 「求め続けよ。探し続けよ。たたき続けよ。」と。 しつこく諦めないで、アグレッシヴになんとかその道が開かれるようにと。 ヘルシンキのど真ん中に教会を建てたいという思いを与えられた人がいた。 その場所には、大きな岩があったのだが、二人の設計士がその岩をくり抜いて教会にするというアイデアが浮かび、実現した。 これが有名な「岩の教会」である。 諦めないでなんとかならないかと求めた結果だ。 また、この二人の設計士は有名になり、仕事がどんどん入ってくるようになる。 「求めよ、さらば与えられん。」だ。 神様は私たちに良いものを与えようと待っておられる。 が、真剣に祈らないと与えてくださらない。 なぜなら、簡単にきかれると有り難さがわからないからである。 本当に求めるものを、はっきりと神様に持っていきたい。
2012-03-31 17:04
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