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「別の道を通って」マタイ2:1~12 [礼拝メッセージ]

12月10日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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  東方の博士たちは、ユダヤ人が捕虜として連れて行かれたバビロニアのあたりから来ており、おそらくユダヤ人を通して旧約聖書を知っていたと思われる。だからこそ、占星術の専門家であった彼らは、聖書が指し示す救い主の誕生を星の動きから知り、拝みにやって来たのだろう。占星術という迷信的要素はあったが、聖書探求と救い主を求める気持ちがあった彼らは、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。(マタイ7:7)」の通り、導かれてきたのだろう。
 博士たちの姿勢とは反対に、ヘロデ王は救い主の誕生を喜ぶのではなく、自分の地位が脅かされることを恐れ、エルサレムの人々もとばっちりを恐れて喜ばなかった。祭司長や学者たちも、聖書の専門家として救い主の預言に精通していたにも関わらず、博士たちと共に救い主に会いに行こうとはしなかった。現代もまた、救いを求めながらも日々の生活に流されたり、人の目を気にしたりして、イエスの所に行かない人々が多いのではないだろうか。
救い主の殺害に失敗したヘロデ王は、ベツレヘムとその近辺の2歳以下の男の子を皆殺しにする。イエスの命は、ヨセフの夢に現れた主の使いの言葉によって守られたが、この事件の背後にあるのは、目に見えないサタンの働きである。サタンの策略にはまったアダムとエバによって、人間には罪が入ってしまったが、神は女の子孫として生まれる救い主によって、サタンの頭が踏み砕かれると預言する(創世記3:15)。それ以降サタンは、出エジプト記1章やエステル記3章から分かるように、様々な形でユダヤ人の子孫の命を滅ぼそうとしてきた。これを現代に当てはめると、サタンは子供たちの救いを妨害し、教会を滅ぼそうとする。子供たちの救いは教会の将来につながっており、それを担うためのJキッズや幼児園、ベビー・プリスクール等の幼児教育が守られるよう、教会を上げて祈り、取り組んでいくことが大切である。
 東方の博士たちは、ヘロデ王の策略に気付いたため、命令に従わずに別の道を通って帰って行った。この世の権威より、神のみことばに従ったのである。私たちは自分を愛し、大切にしていい。しかしそれだけではなく、神の国とその義を大切にし、神を愛し、隣人に仕えること、これこそが「別の道」であり、イエスによって変えられた生き方なのだ。

『選ばれた羊飼いたち』ルカ2:8~20 [礼拝メッセージ]

12月3日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

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イギリスのヘンリー王子が、アメリカの女優と婚約したというニュースが世界中を賑わせている。彼女の美しさが王子を魅了したのだ。このように、選ばれることには理由がある。
 これ以上の大ニュースと言えば、救い主であるイエス様がお生まれになったということだ。天使がこのニュースを一番に伝えたのは羊飼いたちである。住居も定まらず、社会的地位も低く、人々に蔑まれた存在の彼らにであった。強い者、優れた者、身分の高い者が選ばれるのが当たり前であるのに、そんな彼らが選ばれたことこそ、まさに無条件的選びであり、恵みに他ならない。
 また、羊飼いたちの「素直さ」も示される。彼らは天使のお告げを聞いて、自分たちの見たものを信じ、捜しに出かけたのだ。経営コンサルタントである小宮氏は、「成功する人に一番必要な資質は『素直さ』である」と説く。それには三つのポイントがあり、①話を聞き、一旦受け入れる。②とりあえずやってみる。③実行し続ける。というものだ。
 また主は、羊飼いたちの「地位の低さ」も用いられた。この時ヨセフとマリヤは、住民登録のためベツレヘムに来ていた。急に産気づいたマリヤだが、どの宿もいっぱいで、ようやく泊まれたのは家畜小屋だった。しかし、これが高級な宿もしくは王宮であったなら、羊飼いたちは近づくことすらできなかったはずだ。イエス様が低くされ、この世にお生まれになったからこそ、彼らと出会うことが出来た。また、彼らの証言もマリヤ・ヨセフに安心と確信を与えた。
 私のことを語りたい。私の長所も素直さだと思う。今まで松原聖書教会は様々なことを取り入れてきた。デイボーションと分かち合い、そしてセル・チャーチなど。そのまま取り入れるのではなく、あくまでも松原に合うやり方を追求するのである。大橋先生にセルを教えて頂き10年間続けたが、限界を感じ、打破したいと思っていた。そんな時知立の原田先生により家の教会を知り、早速招待キリスト教会に研修に行き、松原の家の教会がスタートした。
 それ以降次々と受洗者・転入会者が与えられている。これはみこころに素直に従ったから与えられた祝福に他ならない。みことばに従い、実践し、続ける者となろう。

「もしかするとこの時のため」 エステル4:1~16 [礼拝メッセージ]

11月26日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 ペルシャの王アハシュロスは,妻が宴席での命令を拒んで夫をないがしろにしたことに怒り,王妃の座からを退けた。代わりに王妃に選ばれたのが,ユダヤ人の娘エステルである。まことの神様はご計画の中で何を用いられるかわからない。
ユダヤ人は捕虜としてバビロンへ連れていかれたが,ペルシャが解放令を出したため自由になった。その後ユダヤ人はペルシャの都で繁栄し,富を築いた。それを快く思わない権力者のハマンは,ユダヤ民族抹殺を計画した。エステルの養父モルデカイは,王妃になったエステルに「あなたがここにいるのは,もしかするとこの時のため」と,ユダヤ人を助けるように言った。私たちはそれぞれの置かれた立場があるが,「もしかするとこの時のため」という時があるかもしれない。その時はイエスさまのために自分の立場を生かしてほしい。
エステルはユダヤ人を助けるために命がけで王に直訴する決心をし,ユダヤ人に断食の祈りをしてほしいと求めた。断食の祈りが用いられるのは命をかけた祈りだからだと,その有用性を教えられる。エステルは主のみこころなら同胞のために命をかけてもよいいと決意したが,この姿勢はイエス様が私たちのために十字架で命を捨ててくださった姿と重なる。
このあと,『エステル記』にはエステルとモルデカイの大逆転劇が書かれている。モルデカイは,門番をしていた時に王の暗殺計画を知り,エステルを通じて王に告げたことがあった。その時すぐには報奨を与えられなかったが,王は後になって記録を読み返し,この件でモルデカイに報いよう思った。これをきっかけに,モルデカイはペルシャの総理大臣になる。モルデカイが自分の仕事を忠実に行ったことが主に用いられたのだ。私たちも与えられた仕事・立場で忠実に仕え,最善を尽くしていこう。

『違いを知って、お母さん、お父さん』  ローマ 12:6~8 [礼拝メッセージ]

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11月19日成長感謝記念礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 人は皆、好きな事、得意な事が違う。それ以外を強制的にやらせると、その人の持ち味まで殺してしまうことがある。 それぞれの違いを知ってほしい。
 手を組んだ時、右の親指が上になる人は情報を理論で取り入れ、左が上になる人は感性で理解する。腕組みをして、右が上になる人は理論で説明するのが得意であり、左が上になる人は感性で表現する。これを活用するとコミュニケーションが円滑になる。あるお母さんは、マイペースな6歳の娘と3歳の息子にイライラし、「早く」と怒る毎日だったが、子どもたちが感性で理解するタイプであることを知り、いろいろ試した結果、彼らに有効なのは物語にして話すこととわかった。 たとえば、食事中にはしが止まると、お腹の中の免疫パワーが言う。「たすけてくれ~ 風邪ばい菌が増えている。やっつけるにはほうれん草パワーが必要なんだ。さあ、大きなお口でガブッチョ」 子供たちは喜んでほうれん草を食べ、「ばい菌はなんて言うてる?」と聞いてくる。「うわ~、ほうれん草は栄養満点だ。にげろ~たすけて~」と盛り上がる。完食すると、ばい菌の王様まで退治できるというストーリーだ。 食事の時間は楽しくなり、長女の好き嫌いもなくなったそうだ。このお母さんには、物語にして楽しませる賜物が与えられている。
 聖書も、神様から与えられたそれぞれの賜物を活用するように勧めている。 ローマ12:6~8の「預言」はみことばに基づいて物事を見、考える賜物。「信仰」は大きなビジョンを実現する、「奉仕」は身体を使ってよく動く賜物。「教える」には先生タイプと研究者タイプがある。「勧める」は人を育てることに関心があり、「分け与える」は気前がいい。「指導」はリーダーシップ。「慈善」は泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶカウンセラー的な賜物である。 
 賜物は人々のために使う時、その人は用いられた喜びを経験し、用いれば用いるほど「与えなさい。そうすれば与えられます」の原則で増し加わる。それぞれ自分に与えられた賜物・能力をよく知って、互いを理解し、その賜物を活用し仕えあっていくことが神様の願っておられるところである。良い人間関係・親子関係・夫婦関係を築いてほしい。 
 それぞれが自分に与えられた良いものを伸ばし、その人ならではの主の栄光を輝かすことができるように。 そのことを通してイエス様の御名が崇められるようにと祈る。

「2つのものを1つに」エペソ2:11~22 [礼拝メッセージ]

11月5日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 創世記1章には、神がこの宇宙と地球を創造したこと、そしてそれは、人間のためであることが書かれている。これは、宇宙物理学の観点から地球を考えてみる時、真実であるということがわかる。例えば、生物が生きるためには液体の水が必要だが、もし地球の位置がもっと太陽に近けれba
、水はすべて蒸発し、地表の温度は高温になる。逆にもっと離れていれば、水はすべて凍ってしまい、いずれにしても生物は生きることができない。このようないくつもの条件を満たす確率は少なくとも1兆分の1であるといい、銀河系の星は1千億個だということから、地球はまさに奇跡の惑星であり、生命体のために神が条件を整えたとしか考えられない。しかし人間は、アダムとエバ以降、神から離れ、関係が断絶してしまったことにより、病や老いや争い、何よりも死に苦しめられるようになってしまった。これが人間の不幸の根本的な原因なのである。
 イエス・キリストは、16節に「十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」とあるように、神と人との断絶を結び合わせるためにきてくださった。「敵意」とは「十戒」のことであり、十戒の目的の一つは、私たちが神の前に罪人なのだと教えることである。しかし、イエスの十字架の贖いを信じるならば、罪が赦され、霊的な恐れから解放され、神と共に生きることができるようになる。苦しみにあわなくなるわけではない。しかし神に信頼し、委ねることができるのだ。
 イエスは、人と人との関係も結び合わせてくださる。「人間は平等」というのは現代では常識だが、江戸時代には身分制度があった。歴史ジャーナリストの井沢元彦氏によると、民主主義の土台は「神の前に人間は皆平等」というキリスト教の教えにあるという。またあるご夫妻は、離婚を考えるほどの危機的な関係だったのが、信仰によって和解が与えられ、現在は牧者として教会を支えてくれている。またある方は、亡くなった父親に天国で会えること、その時に地上で謝れなかったことを伝えられることに希望を持っているという。このようにイエスは、人と人を結び、和解と希望を与えることができるお方なのだ。

『神の民として』エレミヤ 20:7~18 [礼拝メッセージ]

10月29日礼拝メッセージ(中村牧師先生)より
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 今日の箇所は預言者エレミヤの神様への正直な訴え・嘆き・叫びの言葉である。実はこの箇所は私が神学校に献身の決断の後押しになった箇所でもある。自分の人生をのろうほどの苦難の中にありながらも、主から与えられた困難な使命に真実に生きようとするエレミヤの伝道者としての姿に励まされ、私もこれからの人生を主に委ねていこうと決心させられたのである。エレミヤは苦しみの中で神様が私を惑わされたのにと訴えているのだが、それでも彼は与えられた預言者としての使命に生きようとしている。その原動力となったのは主のみことばと主に信頼し続ける信仰にあった。
 エレミヤは主から立てられた預言者として神様からの裁きの宣告を神の民であるユダ王国に伝えた者であったが、同時に神に裁かれる同じ民の一員でもあった。ユダの民の罪を自分の罪として民の痛みを自分の痛みとして背負って生きることに神の民としての嘆きがあった。
 エレミヤの姿から教えられることは私たちも神の民、又、キリストのからだである教会の一員としてその中に身を置くことと、キリストの共同体の一員であるという自覚を持ち続けていることが求められているということである。先日の山形キャラバン活動では心強い私たちの教会のメンバーと共に働くという恵みを受けた。
 神の民の一員として当事者意識を持ってその中に身を置くことで見えてくる恵みがある。もちろん客観的に団体を分析することも必要ではあるが、それよりも私たちはいつも神の民の一員としての意識を高く持ち続けたい。エレミヤの嘆きの背後で本当に苦しんでおられるのは、滅びゆく民のために心を痛めておられる主ご自身である。主は一人でも多くの人の救いを願っておられる。主の思いを共有しお手伝いするために私たちは教会の活動を進めている。運動会や家の教会セミナーなどの働きを通して私たちはイエス様にお仕えし、イエス様が教会に与えてくださっている多くの人たちに主の恵みを流していきたい。神様が松原聖書教会に期待し委ねて下さっている働きを神の民の一員として共有して神様から力をいただいて、これからも積極的に進めていきたいと思う。

『一石三鳥』マタイ25:34~40 [礼拝メッセージ]

10月22日礼拝メッセージ(S執事)より
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 私は今52歳、受洗して12年、会堂局の執事を任されているが、救われる以前・以後について証ししたい。
 私は不動産の仕事を自営でしているが、救われる前の私を家内の目線でかかれた手紙を今読むと、我ながら酷い夫であり、父親だったと恥ずかしくなる。仕事は熟知して一生懸命だが、付き合いが多くゴルフや飲酒に明け暮れ、家庭を顧みない私を子育て中の家内は腹立たしく、辛かったと思う。
 やがて家内は同じマンションのクリスチャンの友達に誘われ、子供達と共に教会へ行くようになった。Ⅰ歴代誌4:10にある「ヤベツの祈り」は家内の気持そのものだった。しかしとうとう離婚を決意した家内の本気さに驚き、謝り自分も教会へ行くと言った。最初は宗教にマイナス思考があり嫌々行っていたが、友人の死を通して創造主なる神さまを信じた。
 洗礼を受け、聖書に親しむ中で物の見方、考え方が変えられたが、一番の変化は末息子が2歳のとき心肺停止状態を起こした事だ。「自分の命と引き換えに息子を助けて下さい。酒も飲みません。」と、何故かお酒を引き合いに出し、祈った。幸い息子はたいした事もなく事なきを得たが、あれからお酒を飲む事をやめた。誤解のないように言うが、決してお酒を否定しているのではなく、お酒に支配されていた自分の状態が問題だったのだ。この体験によって、ひとり子さえ惜しまずに私達の罪のために十字架に付けてくださったという人間の理解を超える御業と愛に触れ、胸が熱くなり、もっと神さまに仕えてゆこうと示されている。また、家内と共に力を合わせて家の教会が出来る事、そしてVIPの方達が協力して支えて下さる事も嬉しい恵みの一つだ。
 私の変化が用いられ、子供達がそれぞれクリスチャンホームを築き、そして不思議な取り扱いの中で私の母も救われ、孫を含めると12人の親族が共に礼拝を捧げるという以前の私からは考えられないような恵みを受けている。大勢の方が支え、導き、祈りをささげてくださった祈りの応答としての神さまの祝福だと感謝している。
 会堂局の執事として聖なる宮である教会で自分の仕事を通して細やかに仕えてゆこう。主に在って人にした親切を、主は「わたしにしたのだ」と評価し祝福して下さる。まさに一石三鳥の恵みを与えて下さる神さまに感謝し、喜んで仕えてゆきたい。 

「死して希望あり」Iテサロニケ4:13 [礼拝メッセージ]

10月15日 召天者記念礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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  千葉県にある習志野台キリスト教会の丸山先生からいただいた手紙の中に、先生のお父さんが長男を2才1か月で亡くされた時の文章があったので、一部を紹介したい。「息子は先にイエスのもとに行った。さみしいが、また天国で会える日が来る。また抱きしめられる日が来る。人間は皆必ず死ぬ。確かに死は一大事だが、取り返しのつかないことではない。罪の赦しなく死を迎えるならば、それは永遠の滅びになる。しかしイエスの十字架によって罪が赦されているなら、死は新しい命への入り口であり、天国で再会することができるのだ。」
 聖書には「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。(創世記2:7)」と書かれている。確かに人は土葬されると、成分が同じなので土にかえる。そのようにして神に創造されたアダムとエバだったが、「取って食べる時、必ず死ぬ」と神から言われていた善悪の知識の木の実を食べたことで、神から断絶され、死の呪いを背負うことになってしまう。しかし神は、死に支配されることになった人間のために、この世にイエス・キリストを送ってくださり、身代わりに十字架にかけることによって、永遠の命の道を開いてくださった。それゆえ、イエスを罪からの救い主だと信じる者は、死の呪いから解放され、エデンの園の完成形である天国へいくことができるのだ。
 キリストにある希望のひとつは、イエスが「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」と言われたように、「永遠の命」をいただいていることである。そしてもうひとつは「天国へ行ける」こと。天国とは、イエスが直接支配する喜びの場所であり、悲しみも苦しみも労苦もない。そして再会の場所であり、この世で死別しても、天国でまた会えるのだ。私たちは全員必ず死ぬ。しかし、キリストを信じるなら死は終わりではなく、死してなお希望がある。 



『聖書の神は人格的な神』エレミヤ11:1~1  [礼拝メッセージ]

10月8日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 私はエレミヤ書が好きではない、その内容が「契約違反に対する神のさばき」だからだ。神が何度も悔い改めを呼びかけるも、ユダの民たちは聞かず、預言通りにバビロンに滅ぼされてしまうのだ。しかし深く読むと「神の教え」を理解することができる。
 真の神は私達人間を「対等な存在」とみなし、契約を結んで下さった。では人間は何のために造られたのか?創世記1章に、神は生きとし生けるもの全てを造られた最後に、「ご自身のかたちとして」人間を創造されたとある。この「神のかたち」とは英語で「イメージ・オブ・ゴッド」、つまり「自由意志」を持ち、「主体的に神を愛することができる」唯一の存在として造られたのである。
 ミズーリ大学のジョージ・ゲイル教授は「世界は、生物が発生することができるために、あらかじめ整えられていた」と発表した。この世界を人間が管理するために、あらかじめ神が備えられたのだ。また、日本の進化論の権威である今西錦司氏も、「進化論を科学で裏付けすることができない」と認め、クリスチャンになった。
 人間が他の動物と決定的に違うことがある、それは言葉によりコミュニケートできる、そのように造られ祝福された存在だということだ。にもかかわらずイスラエルの民は神に背き、「契約のことばを聞かない者はのろわれよ」と宣告されてしまう。
 光の森聖書教会のベー先生は、長い間神経性胃炎で苦しんでいた。断食により痛みが改善されたが、真面目な性格のゆえ、なにかあれば自分を責め、その都度胃を痛めていた。チェ・ヨンギ先生の著書を読み、家の教会のために毎日何時間も祈りを捧げつつも、うまくいかない事があると「自分の祈りが足りないせいでは...」とまた自分を責めてしまう。しかし断食している時、ローマ12:3のみことばが与えられ、「自分には自分のペースと賜物がある、人といたずらに比べる必要はない」と示されたという。それによりべー先生は律法から解放され、教会も活気づいてきた。このようにみことばを与えられたらそれを自分に当てはめ「神様は私に何を語りかけておられるのか?」と思いをめぐらせることが大切だ。
 自分勝手をしたあげく、困ったときの神頼みで祈っても神は聞かれない。しかし、イエス様が神と私達の間を邪魔していた「罪」を取り除き、直接コミュニケートできるようして下さった。私もチェ先生の著書から祈りで牧会することを示され、週に一度、教会員お一人お一人のためにとりなしの祈りをする。意図的にしないとつい自分の都合を先にしてしまう私だが、「祈りなさい」と言われるイエス様の声に応答し、主の望みを実現させたいと願う。


『リーダーに問われる責任』エレミヤ8:1~9 [礼拝メッセージ]

10月1日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 エレミヤ書8章にはイスラエル滅亡の預言が集められ,1節ではリーダーである王,首長,祭司がイスラエルの背信の責任を問われることが書かれている。トップリーダーのいちばん大きな仕事は,組織の方向性を決めることである。イスラエル最盛期の王ソロモンが異教徒の妻たちの影響で他宗教を受け入れたことがきっかけで,イスラエルは分裂し,滅亡に向かうことになった。それほど,リーダーの責任は重い。日本の名門企業の経営危機も,歴代社長の判断ミスが原因だと言われている。教会の責任者として,私の判断基準は聖書に合っているか,ニーズに適応しているかである。たとえば,この教会では人々のニーズに合わせて幼児教育を行っている。
 8節の「書記たちの偽りの筆」は「勝手な解釈」を意味している。彼らは,神様は自分たちを愛しているから何をしても見放されないと解釈していた。しかし,神様は義のお方でもあり,私たちを愛するがゆえに裁かざるを得ない時もある。現在でも,聖書の間違った解釈に基づいた信仰生活をしている人たちがいるが,聖書の勝手な解釈は危険である。
 聖書を正しく解釈し,みことばを自分のものにするためには,聖書のみことばを自分自身の問題や生き方に結びつけ思いめぐらす時間をもつことが必要である。私は,さまざまな出来事の背後には必ず主がおられると信じ,自分に不都合なことも神様の御心を思いめぐらしながら祈り,最後は神様の御手にゆだねている。また,聞いたことをわかちあうと,1人では考えが及ばないことも教えあうことができる。家の教会で,みことばのわかちあいの時を持ってほしい。

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