So-net無料ブログ作成
前の10件 | -

『神の子ども』マタイ5:1~12 [礼拝メッセージ]

1月27日礼拝メッセージ(中村牧師先生)より

 「天の父なる神さま」そう呼ぶだけで私達は神さまとつながることができる。自分の罪を認めイエスさまを救い主と信じ受け入れ、神さまとの正しい関係の中で祈り聞き従うとき、私達の傍らに立って寄り添い「わたしの愛する子ども」と神さまは呼びかけてくださる。
 イエスさまの山上の説教は神の子とされた者の特徴と生き方が集約されているのだ。
私達は神のしもべではあるが、イエスさまを信じる信仰によって神の子とされた者でもある。
 しもべと子ども(家族)では立場が全く違う。私達は神さまにとってかけがえのない子どもであり神の家族として愛されているのだから。 神さまは父として時には厳しい訓練をされる事もあるが、私達を常に見守り育んでくださっている。 たとえ私達がどんな状態であっても、私達の存在自体を父なる神さまは親として喜んでくださっている。 だからしもべのような消極的な生き方ではなく、神の子どもとして積極的な生き方をしてゆこう。
 理不尽と思う事が起きたとしても、イエスさまが「行け」と言われるなら信じて従ってゆくとき神の力が与えられる。 前向きに一歩を踏み出すとき、私達に与えられた御聖霊によって今まで以上の力を出すことができる。私達に与えられた神の子どもとしての特権を余すところなく活用し、みことばにあるように求め続け、探し続け、たたき続ける信仰の歩みをしてゆこう。
 イエスさまがヨルダン川で洗礼を受けられたとき、父なる神さまの愛する子として受けられた御聖霊が私達にも与えられている。神の国とその義を求めて一歩踏み出すとき、神の子として与えられている内住のご聖霊が力を発揮して神さまのみわざを行う者としてくださる。これがみことばの約束であり私達の信仰なのだ。たとえ失敗しても神さまは私達に絶えず寄り添い、背後から手を差し伸べ脱出の道へと導いてくださる。
 わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい
                         ヨハネ13:34
かけがえのない愛する子と呼んでくださる神さまの恵みに感謝し、神の子として積極的な 生き方にチャレンジし一人ひとりが喜びをもって隣人に仕え、神さまの栄光を現す者としてくださいますように。

『わたしがあなた方を愛したように』ヨハネ 13:34 [礼拝メッセージ]

1月20 日(野口牧師先生)より

 真の神様への愛はその人の持つ赦しの実感に比例し罪の自覚から来る。自分の罪の自覚が増すほど神様の恵みもはっきり見えて、その感激が奉仕の心を高める。パウロは正にこの証人である。熱心なパリサイ人であったパウロはクリスチャンを迫害しステパノをも殺したが、ダマスコで復活のイエス様とお出会いし、これまでの人生が逆転して異邦人伝道の使徒となったのである。パウロは祈りの中でイエス様の十字架と復活は自分の為であったこと、またこんなひどい迫害者であった者が赦され異邦人への使徒としての使命が与えられたことを思うと、全力でこの使命に生きなければならないと思ったことであろう。
 パウロはイエス様に習う者としていつも一番指向であった。イエス様の愛に感じて誰よりも一番多く働きたかった。私たちも置かれた所で一番弟子を目指していきたい。私たちは神様に創られたオンリー1、自分のできるベストを尽くしてその結果一番になれたら良い。
 神様に用いられる人の条件はただ一つ、イエス様を愛するということ。イエス様に従うと言ったペテロも結局はイエス様を裏切ってしまった。しかし復活の主として現れたイエス様はペテロを責めるのではなく「あなたはわたしを愛しますか」と確認され、その上用いられたのである。イエス様への愛が確かであるならば例え失敗したとしてもどこまでも用いてくださる。
 私たちクリスチャンの交わりは三位一体の真の神様を中心とした、主にある家族の交わりである。神様を抜きにした人と人との交わりは本当の意味で分かりあえなくなるが、信仰者の交わりは真ん中に真ん中に、イエス様にイエス様に、近づけば近づくほどお互いが近づいていく神中心の交わりであり、主にあって互いに愛し合い与えあう愛の交わりである。イエス様が祈りから力を得られていた様に私たちも互いに愛し合うことを祈りを通してまた、ご聖霊の力を頂きチャレンジしていく。主にあって互いに愛し合い行動を起こしていく時、そこに大きな祝福が生まれるばかりでなく自分自身をも幸せにする。
 イエス様は私たちに不正の富で自分の為に友を作りなさいと言われる。不正の富とは私たちが自分の物としている全てのものであり、実は神様からの一時的な預かりものであるにも関わらず自分の物のように錯覚しているところに不正があるということである。しかし主はそれを三つの愛のために用いよと言われる。主の家族を愛しまだイエス様を知らない人の為にその不正の富を多いに活用せよと命じておられるのである。

キラキラサタデーミニバザー [キラキラサタデー]

1月のキラキラサタデーはジャムづくりと食べるラー油づくりを行いました。
たくさん作って、翌日キラキラハウスでのミニバザーで販売しました。

また、ミニバザーでは編み物クラブのメンバーの作品や、みことばポストカードも好評でした。

DSC_0391.jpg

DSC_0393.jpg

DSC_0399.jpg

DSC_0400.jpg

「マルコを一人前にさせたもの」使徒12:25、ヨハネ13:34 [礼拝メッセージ]

1月13日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 マルコは、家庭を集会所として提供していた熱心な信仰者であるマリヤを母に、そしてパウロを支えたバルナバを従兄弟にもつ人物だった。そして、バルナバとパウロの第一次伝道旅行に同行したが、使徒13:13にあるように、途中で帰ってしまう。そのため、第二次伝道旅行の際には、マルコを連れて行くかどうかで激しい反目となり、マルコを連れたバルナバと、シラスを選んだパウロは、別行動をとることになる。マルコの成長のためには、この時のパウロの厳しさ(父性)とバルナバの優しさ(母性)の両方が必要であり、それによって、後にパウロから「マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。(IIテモテ4:11)」と言われ、マルコの福音書を書いた人物へと変えられていったのである。このように、父性と母性の交わるところに人の成長があり、三位一体の神は、そのどちらをも完全に持っているお方である。
例えばダビデについて考えてみると、彼を最も訓練したのは、彼の命を狙ったサウル王だった。サウルはダビデへの嫉妬心と、自分の王座への執着心のために、執拗にダビデを追い回したが、その中でダビデがしっかりと神に結びつくこととなり、多くの人から慕われるようになる。また、後にダビデを支えるブレインとなったのは、この逃亡時代を共に過ごした人たちだった。このように、自分にとって苦しい人は、自分を訓練する役割を担っていると考えることができるだろう。
御手の中でサウルが父性の役割を担ったように、サムエルやヨナタンという母性を与えてくれる人たちも、しっかり備えられていた。特にヨナタンは、サウルの息子であり、ダビデがいなければ王位につけたにも関わらず、ダビデに対する友情と、サウルに対する忠誠を保ち続けた人物である。それは、ダビデが神に選ばれた器だと知っていたからだ。このヨナタンの愛は、一方的に私たちを愛してくださっているイエスの愛に通じるところがあるものだろう。
近年、脳トレが流行しているが、実生活の中で逆境を乗り越えることのできた体験こそが、実は最高の脳トレになる。脳には普段は無意識にリミッターがかかっているが、切羽詰まった状態になるとリミッターが外れ、火事場の馬鹿力といった能力が発揮されるのだという。何度も修羅場をくぐってきた人には人間としての深みがあるが、反対に、試練にあったことのない人は脆いところがある。
パウロの厳しさとバルナバの優しさの両方がマルコの成長に必要だったように、父性と母性の交わるところに私たちの成長がある。試練と共に脱出の道を備えてくださっている神に信頼しつつ、訓練を受け止めていこう。


「主のみことばが,ますます盛んになり,広まって行ったのはなぜ?」使徒12:24,ヨハネ13:3 [礼拝メッセージ]

1月6日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 ヘロデ王が初代教会を迫害し,ペテロが投獄された。しかし,教会で熱心に祈っていると不思議な方法でペテロが救出され,ヘロデ王は寄生虫にかまれて死んだ。教会の祈りの勝利である。神体験をした人々の祈りはますます強くなり,みことばが広まっていった。
 長時間祈り続けることは難しい。しかし,私たちを祈りにかきたてるのは,試練・苦難・逆境・痛みである。人間の力で解決できない時,私たちは祈り,まことの神様に深く結びつく。苦難や試練は神様の恵みを知るためであり,サタンの攻撃ほど祈りの力を強めるものはない。
 祈りの難しさの一つに忍耐がある。人生には,待つこと以外何もできない時があるが,私たちが待っている間にまことの神様が働いてくださっているのだ。また,私たちの祈りが行き詰まる時や祈れない時,ご聖霊様が助けてくれ,とりなしてくださる。(ローマ8:26)
 三浦綾子さんは「真の友は祈りの友,自分の思いを知り祈ってくれる人が本当の友」と言う。人は神様との縦の関係とともに,全てを話し祈りあう友との横の関係も必要である。「互いに愛し合う」具体的なことの一つが「祈りあう」ことである。そういう友を得てほしい。
 祈りの方法の一つが合心祈祷である。二人で祈るとき,神様はその祈りを聞いてくださる。(マタイ18:19)また,神様の約束(聖書)の言葉をにぎって祈ること。わたしは「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)のみことばを握って40年祈り続けると,父がイエス様を信じ,母もクリスチャンとの交わりの中で心の変化が見られる。とりなしの祈りでは,相手がもっとも必要としていることを祈ろう。
 この年も,互いに愛しあい祈りあい,主を愛し伝えていく年となりますように。

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いします。

IMG_8895.jpg





『その方の星を見たので』 マタイ2:1~12 [礼拝メッセージ]

12月23日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

IMG_8876.jpg

 東方の博士たちが星に導かれ、救い主に会いに来た。異邦人である彼らは占星術も研究していたが、真理に辿り着くことはできず、生活をなげうってイエス様を追い求めた。
 星はどんな時に見えるのか?真っ暗な夜の暗闇の中、闇が深ければ深いほどその光は輝く。皆さんも迷いや悲しみなど、暗闇の中でイエス様に導かれたのではないだろうか。私も高校時代、進学校の上位クラスに入ったが、学校の名誉のためにより良い大学を目指すべき、という方針に反発し、部活に打ち込むも体を壊し退部、何のために勉強するのか?と思い悩む日々だった。そんな私にある友人が、人生相談に乗ってもらえるから、と宣教師の先生を紹介してくれた。また、ある婦人はご主人が入院中、同じ部屋に入院していたAさんの証を聞き、イエス様を知った。彼女は以前とある新興宗教の信者だったが、教祖は難病の孫のことで苦しみ悩む彼女に、心無い言葉を浴びせたそうだ。そんな中イエス様に出会い、もっと知りたいと願い、本日洗礼を受けることになった。
 このように、暗闇の中で星に導かれた私たちはイエス様に出会い、真理を見つけた。人というのは「自己中心」という罪を持つ。自分さえ良ければいい、自国さえ良ければいい、という自己中心の罪、また相手に対し過剰な期待をし、「~すべきだ」とするのも自己中心の罪である。また、人間は平等であり、その尊厳はその人の持つ能力では測れない、というのも聖書が示している真理である。
 博士たちはイエス様に出会い、来た道とは別の道を通って帰った、これはイエス様に出会い、生き方を変えられた、ということだ。私自身もイエス様を知りセルフイメージが変えられた。私たちは神の作品であり、一点ものだ、私は私でいいんだ、と。
 また、イエス様は楽天家で現実的なお方で、「明日のことは明日が心配する」、明日の心配は無用だ、今日を集中して生きよ、と仰って下さり、生き方の指針となり、「私についてきなさい」と仰って下さるお方だ。イエス様に出会った博士たちの喜びはいかばかりだったろう。ぜひイエス様から与えられた喜び、恵みを振り返り、文章に書いていただきたい。それは必ず、まだイエス様を知らない方への証になるのだから。
 
 

キラキラサタデー・クリスマス [キラキラサタデー]

12月15日は毎年恒例のクリスマスポトラックでした。
今年も豪華で、お腹いっぱいになりました。

DSC_0346.jpg

DSCPDC_0000_BURST20181215115151707.jpg

DSCPDC_0002_BURST20181215115203870.jpg

『虫にかまれて死んだ王』 使徒の働き 12:20~24 [礼拝メッセージ]

12月9日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
IMG_8725.jpg

 ヘロデ王はペテロを会衆の面前で殺し、自分の人気を高めようとしたが、ペテロは不思議な方法で救出される。ヘロデはがっかりし、番兵たちを取り調べ、彼らを処刑するよう命じ、そして、ユダヤからカイザリヤに行き、そこに滞在した。 
  その頃、飢饉があり、海岸べりで山地に囲まれ、耕地を持っていないツロとシドンは、敵対関係であっても、豊かな穀倉地帯を持つヘロデにすり寄り、食糧を分けてもらいたかった。ヘロデが銀のコスチュームで現れ、演説を始めた時、人々は「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続け、ヘロデは虫にかまれて死んだ。 この事件はユダヤ人の歴史家ヨセプスも記録している。
 注目したいのは、ヘロデが初代教会を迫害したからではなく、神に栄光を帰さなかったから、神に打たれたことである。つまりヘロデが自らを神としたから打たれたのである。人間の罪の根本は「自らを神とする」ことである。アダムとエバが禁断の木の実を食べた動機は「これを食べると神のようになれる」であった。ヘロデが王家に生まれたのも、ユダの国が飢饉の中でも食糧が確保できたのも全て神の恵みであるのに、ヘロデは自分を誇った。
  神は高慢を嫌われる。でも、人間誰しも自慢したい時、誇りたい時ある。誇っていい。ただ「 誇る者は主を誇れ」と書いてある。パウロは「私は他の使徒たちよりも多く働きました」と誇った。「しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」と言った。志を立てさせ、事を行わせてくださるのは主。ならば、私達は主を誇っていい。
  神の最も激しい審判は「ほったらかし」である。親はその子を正しく育てようと訓戒を与え、時にはムチを与える。それでも言うことを聞かないと「好きにしろ」と言う。これは親として最も悲しく厳しい宣告である。 しかし、まことの神は救われた私達を「好きにしろ」と放置しない。 「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と約束された。そして愛する子を訓練される。私達が高慢になるとゴツンと砕かれる。私達は自分の力で生きているように見えても、自分でどうすることもできない試練や困難にぶつかると、神に叫び求めるしかない。高慢になっても神が取り扱われるから大丈夫なのである。
  ヘロデは自分を神としたゆえに虫にかまれて死んだ。一方、イエス様は全世界の創造主、王の王であるにもかかわらず私達を救うため不自由な人間となり、私達の身代わりになり十字架で死なれた。神が人間として生まれてくださったのがクリスマスである。私達はこのイエス様のために「自分にできることを精一杯させていただきます」と示されたことを実行し、実行させてくださった主をほめたたえたい。

「ホサナ、ホサナ、ダビデの子」マタイ1:1 [礼拝メッセージ]

12月2日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
IMG_8737.jpg

 キリストの系図に「ダビデの子孫」と書かれているのは、ダビデの人生がキリストのひな型になっていることと、罪と赦しにおいて、キリストを浮き彫りにするからである。今回は、後者について考えてみたい。
 イエスが生まれる約千年前、イスラエルは国が安定し、王宮でのんびりと過ごしていたダビデは、水浴びをしていた美しい女性を見つけ、興味を持つ。彼女は、ダビデの部下であるウリヤの妻のバテ・シェバだったが、ダビデは王宮に召し入れ、深い関係になる。やがて彼女が身ごもり、隠蔽を図ったダビデは、戦場にいるウリヤを呼び寄せ、家に帰らせようとする。しかしウリヤは、戦場の仲間を思い、自分だけが良い思いをすることはできないと、家には帰らない。そんな誠実なウリヤを、ダビデは激戦の最前線に置き去りにするよう指示し、戦死させてしまう。そしてダビデは、すぐにバテ・シェバを妻とし、彼女の妊娠が結婚後のこととなるよう、完全犯罪を企てたのだった。
 そこへ預言者ナタンがやってきて、このような話をする。「非常に多くの羊と牛の群れを持っている金持ちの男が、自分の羊が惜しくて、貧しい人が大切にしている一頭だけの子羊を、旅人をもてなすために調理してしまった。」するとダビデは「そんなことをした男は死刑だ」と憤る。ナタンに「あなたがその男です」と告げられたダビデは、自分の罪を認める。神の前に悔い改めたダビデに、ナタンは神の赦しを宣言するが、こんなに大きな罪が簡単に赦されて良いのだろうか?実はこの赦しの背後にこそ、「簡単」ではないキリストの十字架の贖いがあるのだ。
 神は人間を愛している。しかし罪は受け入れることができない。その神の愛と義がぶつかったところにキリストの十字架があり、人間の罪をその身に受けることで、信じる者の罪が帳消しにされるという、驚くべき道を開いてくださった。これがダビデの赦しの根拠なのだ。
 ナタンの話を聞いたダビデは、自分のこととは思わなかった。みことばを人に当てはめるのは簡単だが、自分に当てはめるのが原則であり、そうすることで初めて、キリストの似姿に変えられていく。また、人間は自分が間違っていても、意地やプライドが邪魔をして、謝ることが難しい。ダビデがすぐに謝れたのは、若い頃から神を知り、親しく交わっていたこと、バテ・シェバのことで罪の思いに苦しんでいたこと、ナタンの言葉を神からのものと受けとったことからであろう。そうして悔い改めれたことにより、ダビデは罪から解放されたのだった。また、人間は相手が間違っていると思うと、なかなか許すことができない。ポイントは「自分も赦されている」ことを知ることにある。自分の弱さや罪、そして、そんな自分が十字架によって赦されていることを知る時、人を裁くことができなくなり、許せるようになっていくだろう。

前の10件 | -