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『愚痴が言え、上手に迷惑をかけあう関係づくり』   使徒の働き 9:10~19 [礼拝メッセージ]

7月1日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 サウロはクリスチャンを迫害するためダマスコへ向かう途中、イエス様に出会う。 その強い光のため目が見えなくなり、三日間飲食もせず、ユダという人の家で祈っていた。 何を祈っていたのか? おそらく「私は今まで神様のために、正しいと思ってクリスチャンを激しく迫害してきました。それがあなたに対する反逆行為だなんて。 どうしてもっと早く止めてくださらなかったのですか。ひどいじゃないですか」と自分の気持ちを思いっきり神様にぶつけたのではないだろうか。 神様はそれを否定される方ではない。 詩篇を見ても然り、ヨナ書を見ても然りである。 人は自分の気持ちを吐き出さないと心を整理することができない。
 「いい子に育てると犯罪者になる」岡本茂樹著は愚痴を言える関係を作ることを勧めている。 人はストレスがたまるとしんどくなり、やる気を失う。 愚痴を聞いてもらうと支えられていると感じ、周囲の人を大切にしようと思い、人間関係が良くなる。 親が上手に人に甘えられるようになると、子供も上手に甘えられるようになる。
 神様はアナニヤにサウロを訪ね、手を置くように言われる。 アナニヤにとってサウロは恐れ・怒り・疑いの対象で、迷惑な話である。 しかし、神様は迫害者サウロを「異邦人への器」として選んでいると言われ、アナニヤは従った。 サウロはイエス様に直接会ったが、それだけでは不十分で、クリスチャンの仲間に入れてもらわないと、その能力は活かせない。 一人ではサッカーができないのと同じである。 サウロはイエス様の恵みを受けて、自分も迷惑を引き受ける人となっていった。
 岡本茂樹氏は「もう絶対、迷惑はかけない」と更生を誓う少年は、また少年院に入る確率が高いという。 「迷惑をかけない」という価値観は、悩み・苦しみを一人で抱え込むことになる。 再出発するためには、人に上手に甘えたり頼ったりする生き方を身につけることが必要という。
サウロはアナニヤに手を置いて祈ってもらい、目が見えるようになった。 それはただ肉体的に見えるようになったのではなく、救い主イエス様が、自分の使命が見えるようになった。 自分の生い立ち・状況・能力すべてがイエス様を伝えるために用いられる。 私達が救われた目的は何か? 宣教と弟子化のためである。 家の教会を通して、互いに愚痴を言い、迷惑をかけあって、今度はVIPをイエス様の元に導き、みこころを実現していく弟子になりたい。

「尊敬されたい男」エペソ5:33 [礼拝メッセージ]

6月17日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より


 夫婦関係において聖書は、夫に対しては妻を愛するように、妻に対しては夫を敬うようにと命じている。人間を創造された神は、それぞれに必要なものが違うことを知っておられるからだ。夫婦に衝突があった時、女性は「愛されていない」と感じる人が多いが、男性は「尊敬されていない」と感じる人が多い。
アメリカには「男性は女性に褒められたくて行動する」ということわざがあるが、まさに女性の褒め言葉は、男性の原動力になる。そして、褒める内容には三つの種類がある。一つ目は「doing」で、何かをしてくれたとか、上手にできるといった行動に対するもの。二つ目は「having」で、足が長いとか、目が大きいなど、身体的に持っている特徴に対するもの。これらを褒めることももちろん良いが、これらは条件付きであり、失ってしまえば評価されなくなるという面がある。しかし三つ目の「being」は、「あなたがいてくれて嬉しい」という、その人の存在自体を喜ぶことであり、ここにアプローチすることがポイントとなる。
私の妻は現在、幼児園の副園長、教会の牧師夫人、幼い孫たちの祖母として、非常に多忙な毎日を過ごしている。そんな妻の助けになればと思い、最近は私が家事を手伝っている。特に料理に力を入れているのだが、妻が「すごい」「美味しい」と褒めてくれたり、喜んでくれることが原動力になっている。
また家庭の中で、子どもが難しい質問をしてきた時に「お父さんならよく知っていると思うよ。」と言ってみたり、相談事をされた時に「お母さんはこう思うけど、お父さんにも聞いてみようか。」と伝えるなど、お父さんの存在を出してあげることも、男性に尊敬を現す良い方法だろう。
聖書の言葉通り、男性は女性の尊敬を必要としており、褒め言葉を原動力として頑張れるように造られている。父の日にあたり、女性の皆さんは、ぜひ夫に褒め言葉をプレゼントしてあげてもらいたい。

『人生は出会いで決まる』 使徒9:1~9 [礼拝メッセージ]

6月10日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 サウロはタルソに住む裕福なユダヤ人で、頭も良く、ガマリエルに師事し、当時のユダヤ人社会では大変なエリートだった。そんな彼がイエス様に出会い、生き方を180度変えられた。
 この頃ご聖霊のはたらきにより、伝道が盛んになり、多くの人々が救われ、福音が広められていった。が、そんな時こそサタンの妨害がはたらく。サウロの目にはキリストの教えが「神への冒涜」と映り、獲物を狙う獣のように「迫害に息を弾ませて」いた。大祭司からキリスト者を捕えるための書状を得てダマスコに向かう途中で、突然天からの光を浴び、目が見えなくなったサウロ。彼に呼びかける声があった。
「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか?」「わたしはあなたが迫害しているイエスである」と。
 サウロが迫害しているのはクリスチャンたちであり、イエス様ご本人ではない。しかし教会は「イエス様の体」であり、イエス様はその「頭」である。教会ないしクリスチャンを迫害することは、イエス様を迫害することなのだ。
 この時イエス様はサウロを阻止し、ダマスコのクリスチャンを守った。しかしエルサレムでの迫害はそのままおかれた。この違いは何であろうか?エルサレムで迫害されたクリスチャンは各地へ逃げ、散らされ、行く先々で宣教し、福音が全世界へと広められていった。マイナスと思える出来事も伝道に用いられたのだ。一方、ダマスコへの道でサウロにはたらかれたイエス様は、「敵のエース」を将棋でいう「自分の駒」とし、異邦人伝道へと大いに用いられたのだ。
 このサウロのように、イエス様と出会って180度人生を変えられた人がいる。一人は武庫之荘めぐみ教会の松田先生で、キリストの教えを受け入れられず、すでに救われクリスチャンとなった姉を迫害していた。しかし聖書を読み、みことばに捕えられ、姉への迫害をやめ、ご自身も救われ牧師となった。もう一人は、東京基督教大学の元教授である櫻井圀郎先生だ。元は法律家であったが「世界で一番人をだましているのはキリスト教だ」と、キリスト教を潰す為に聖書を読み始めた。そうして、イエス様の復活の記事が真実であることを確信し、天地創造を受け入れることができ、その後法律事務所をたたみ、神学校に入学した。
 このように最初は迫害者であっても、本気になってイエス様にぶつかる人を、有能な働き手として用いてくださる。イエス様と出会う前に、知らず知らず身につけていたあなたのたまものはなんだろうか?ぜひともその備えられたたまものを、イエス様のご用の為に大いに働かせて用いていただきたい。

『一人の、異邦人の魂のために』使徒8:26~39 [礼拝メッセージ]

6月3日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 アフリカで唯一のキリスト教国だったエチオピア。カンダケの女王の高官であった宦官がクリスチャンになりエチオピアに福音を持ち帰った事が起源になったといわれている。このエチオピアの宦官を救いに導いたものは何だろう。 彼は異邦人だが熱い思いとへりくだった心をもって、まことの神さまに礼拝を捧げたいという一心で遠く離れたエルサレムまで馬車で来た。
 まことの神さまを求める一人の魂の救いのために、まことの神さまはさまざまなものを
用いて働きかけて下さった。御聖霊に示されピリポが遣わされた所には帰路の馬車で熱心にギリシャ語で書かれた聖書の中のイザヤ書を声に出して読んでいた宦官がいた。ピリポは駆け寄り、「あなたは読んでいることがわかりますか」と尋ねた。ギリシャ語に精通していたピリポは導く人を必要としていた宦官に応え、イザヤ書のメシヤ預言はだれについて書かれているのか説明し、旧約の中心はエスさまでありイエスさまの十字架と復活を詳しく宣べ伝えた。
 聖書は導く人がいないと解らないと言う一面を持っている。主は礼拝を通して宦官を導き、礼拝を通して神さまの恵みを知る者とされた。熱心に声を出して聖書を読んでいたことが宦官の救いにつながり、聖書が教える本当の知恵とイエスさまを信じる信仰の確信が宦官に与えられた。そして聖書を正しく知るための導き手としてギリシャ語が使えるピリポが用いられた。
 このポイントを踏まえ、私達も自分に与えられた賜物を主に用いていただこう。主の声に聞き従いピリポのように一歩を踏みだしてゆこう。
また聖書や読書する時、音読することで目と耳を刺激し脳の活性化につながるという。子育てに於いても読み聞かせをすると親子関係が良くなり、子供にとっても好奇心が芽生え、語学力が育まれるというメリットがある。
 異邦人であるエチオピアの宦官の救いは全世界に新しい扉が開かれた瞬間でもある。神さまは一つの魂の救いのために、愛するわが子とするために様々なことを用い、私達を遣わしてくださる。 コロサイ3:16にあるように主の愛の中で互いに教え戒め、心から主を賛美しよう。イエスさまを知らない人達のために一人ひとりが良き導き手となりますように。

「主の恵みと愛する兄姉の祈りに支えられた信仰生活」エペソ2:8~10 [礼拝メッセージ]

5月20日礼拝メッセージ(N執事)より

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 私は,クリスチャンは清く正しく美しい,別世界の人だと考えていた。しかし,妻に誘われ,教会の人と交流をするうちに,普通の人たちだとわかり,友人として付き合うようになった。また,子どもが誕生するまでに大きな試練があったが,教会の人たちの具体的な助けや祈りに支えられた。長女の誕生後,感謝の気持ちから礼拝に出席するようになったが,すぐにはイエス様の復活が信じられなかった。疑問の答えを求めてMさんと聖書の学びをすることになり,その中で「イエス様の復活を信じたい」と信仰告白し,洗礼を受けた。その後,みことばに従うことによる恵みや,「いのちの道」の学びを通して,イエス様の復活が100%確信できた。周囲の祈りと神様の一方的な恵みで救われたことを感謝している。
 信仰生活での最初のチャレンジは,牧者になることであった。不安だったが,周囲の励ましとフォローで,メンバーを本当の家族と思って向き合うことができた。とりなしの祈りの援護と神様の恵みで,今はたくさんの方が集ってくれている。
私は,毎年掲げられる年間聖句に励まされ,従ってきた。それによって,仕事の祝福,牧場の増殖,礼拝局執事就任,牧場の子どもたちの受洗などの恵みがあり,感謝している。
 今年の初め,自転車で転倒し骨折した。自宅療養で治すことができたのは,神様が作られた人間の体のすばらしさと皆さんの祈りのおかげと感謝している。また,その時期に仕事のトラブルを抱えていたが,出社できない私の代わりに上司や同僚が動いてくれ,乗り切ることができた。このことを通して,すべてを自分で抱え込むのではなく,周囲に任せ成長させていくことも,リーダーの役割だと教えられた。
 私は今年の目標として「祈り」を掲げている。自分が祈ってもらうことで祈りの援護と感謝がわかった。もっと祈祷課題を出して祈ってもらい,自分も他の人のために祈っていきたい。また,神様の愛にこたえるために,神様が用意してくださっているよい行いに歩みたい。

『効果抜群のメッセージ』 ヘブル10:36 [礼拝メッセージ]

5月13日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

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本日は母の日礼拝、母親から生まれない者は誰一人いない。母親の存在があって今の私たちがある。
 教会の幼児園では、母親対象に子育てセミナーを行っている。そこで大変好評だった、子育てのみならず人間関係全てにおいて活用できるルールを紹介しよう。これには三つのポイントがある。
① 親が望む子供の具体的な言動を特定する
② 子どもがその言動をするのをひたすら待つ
③ その場面でプラスのメッセージを視点を合わせて伝える
具体的な事例を挙げると、
お風呂上りに娘はバスマットを濡れたまま放っておく。私は「バスマットをハンガーに掛けてくれたら気持ちいいんだけどなあ」と伝え、あとは口うるさく言うことをひたすら我慢、ある日ついに娘がバスマットを掛けてくれた、私はすかさず「ありがとう!バスマット掛かってると気持ちいいね!お母さん嬉しいな」としっかり目を合わせて伝えた。10年以上経った今も、娘がバスマットを掛け忘れたことはない。
 ここで大切なことは、①の具体的な言動というものが、親子お互いにとって幸せであること、決して親の思い通りに子どもを動かすのではないということである。また②の、ひたすら待つということ、これが非常に難しい。しかし聖書のみことばにもあるように、この忍耐が必要なのである。そして③、ついにその時が来たら、プラスの「私メッセージ」を、目を合わせて伝えてほしい。ありがとう、嬉しいよ、とてもいいよ、素敵だよ、大好きだよ、と。
 これはたとえ失敗しても害はなく、上手くいかなくても問題はない。そして上手くはまれば効果抜群である。セミナー参加者には宿題にしている。是非とも大切な人に実践していただきたい。

『地域社会に仕える教会』使徒の働き 8:4~25 [礼拝メッセージ]

5月6日、礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 エルサレムで大迫害が起こり、散らされたクリスチャンは積極的にみことばを宣べながらめぐり歩いた。ピリポはサマリヤでキリストを宣べ伝えた。サマリヤは民族の純粋性がないことから、ユダの人々に見下されていたが、イエス様はサマリヤの女にご自分から声をかけ、ミニリバイバルが起こった。そのサマリヤでピリポが伝えたのは、福音の中心=イエス様の十字架と復活である。
 代表的な死後の世界の考え方に輪廻転生がある。これは釈迦の死後300~400年に釈迦の弟子たちが作りだしたもので、釈迦は死後の世界など言及していない。魂は不滅で永遠に死なず、六道(天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)を巡るというものである。生前、良いことをすれば良い世界に生まれ変わり、悪い事をすれば悪い世界に生まれ変わる。この理論によると、障害者は前世に悪人だったことになる。イエス様は明確にこれを否定し、「神の栄光がこの人に現されるため」と盲人を癒された(ヨハネ9:1~3)。
 阿弥陀如来を信じて10回念じれば極楽浄土に行けるのはありがたいが、阿弥陀如来は歴史的に実在しない。イエス様は歴史上、実在された方であり、そのみわざと言いたい事は、聖書にはっきり書かれている。イエス様だけが死んで、よみがえり、私達を死から解放してくださる。
 ピリポの伝道により、魔術師シモンも信じてバプテスマを受けたが、シモンの目的は自分が力を得て、人々の感心を得ることであり、お金で神の権威と賜物を買おうとした。シモンはペテロに一喝されるが、悔い改めに至らなかった。
 ピリポはサマリヤの町を巡って福音を伝えたが、イエス様は何をされたか、イエス様の模範をみてみたい。
「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」マタイ4:23 
イエス様は教育・伝道・いやし(福祉的働き)をされた。この世に仕えるためにも来られたのである。教会にも社会的責任があり、地域に仕えることが求められている。今、子供の貧困が問題になっている。朝食をまともに食べられない子供は6人に1人。子供食堂のビジョンが与えられている。先日、新潟の亀田キリスト教会に見学に行ってきた。民生委員と協力して、お寺を借りて勉強を見、食事を提供している元恵我南小学校の校長先生にも教えていただき、南花田の「マリリンの家」にも見学に行く。子供食堂を家の教会とコラボして、リンクしてやっていきたい。

『ステパノの逮捕と弁明』使徒6:8~7:53 [礼拝メッセージ]

4月15日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 獅子奮迅の働きをしたステパノ、何故そのような働きが出来たのだろう。 それは恵みに溢れていたからであり、現代の私達にも相通じる部分がある。恵みとは相応しくない者に与えられるまことの神さまの御愛、「にもかかわらずの愛」だ。 取税人ザアカイは莫大な富を持っていたが心は満たされていなかった。劣等感と心の傷に苦しんでいる彼が、あるがままの姿で受けいれるイエスさまの出会いその無条件の愛に触れたとき、恵みが力を生み悔い改めにつながり生き方が変わった。私達も同じだ、イエスさまの恵みが前向きに生きる原動力になっている。ステパノはその御愛を誰よりも知っていて恵みの応答をしたのだ。
 このステパノに対しユダヤ人達は神殿と律法に逆らうことばを語るのを止めなかったという理由で彼を訴えたが、その原因は自分達の罪を指摘されたことに対する怒りだった。ユダヤ人が誇りとしている二つのものに神殿と律法がある。しかしその神殿はユダヤ人によって偶像化され、まことの神さまの怒りを受けた。まことの神殿とはイエスさまを指し示すものであり、神殿が壊されても3日で建て直すと言われた意味は、ご自分が十字架で死なれても3日目に蘇りイエスさまのからだなるまことの神殿を建て直すということだ。
 もう一つの律法としての十戒。神の民として与えられたルールである十戒を受けながら、自分勝手な解釈をしてイエスさまを殺すための口実を作り十字架に付け、まことの神さまに背を向けた。ステパノは自分達を陥れようとした人達を糾弾し悔い改めを迫ったが、偽りの証人を立ててまで自分達を正当化する人間の悪の本質がここにある。
 だからこそ今、私達は聖書をどのように解釈するのか用いるのかが大切なポイントになる。真面目であればあるほど律法主義に縛られ、必要以上に自分を裁きサタンを喜ばせる結
果を生む危険性があるからだ。罪の呵責というコンプレックスから脱してゆくために聖書の教理をしっかりと知ろう。
 コロサイ1:22に記されているように、まことの神さまはイエスさまを通して私達を見てくださる。この恵みによって私達は力を受けステパノやザアカイのように主に用いられる者となる。私達の理念である「主の恵みに生きる教会」としてその恵みに立ち歩んでゆこう。


「神のスチュワード、スチュワーデス」使徒6:3 [礼拝メッセージ]

4月8日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

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この箇所の「評判の良い人たち」の基準は三つあり、一つ目は「奉仕を含む労働」である。この世界を創造したのは神であり、本来は管理も神の領域である。しかし神は、人にこの世界の管理を任せてくださり、「労働」はそのために人に与えられた特権だった。しかし、アダムとエバの反逆以来、労働は「人が生きるためにしなければならないこと」として、苦労を伴うもの、そして最終的には死によって飲み込まれてしまうものに堕落してしまった。しかし、神との関係が回復されれば、労働の意味も回復され、労働や奉仕を通して人格が磨かれ、世界を管理する働きに携わることができるようになる。
  二つ目は「信仰」すなわち「みことばの理解と実践」である。異邦人伝道の使命に生きたパウロは、学問の都タルソに生まれ、敬虔なユダヤ教徒として高い教育を受けた人物だった。しかし復活のイエスに出会って変えられ、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。(マタイ28:19)」というイエスの最も願っておられる大宣教命令に従うために生涯を捧げ、全世界に出て行った。このように「信仰」とは、みことばを聞くだけではなく、実践することなのだ。
  三つ目は「家庭」である。その人の本質は、最も身近な関係である家族(特に配偶者)からの評判に現れるからだ。また、自分自身の家庭をおさめられず、家族を愛せないならば、教会をおさめ、隣人を愛することもできない。家庭が良いものであるかどうかは、家の大きさや場所などではなく、「お互いに受け入れ合っているか」にある。そしてそのポイントは、自分自身が十字架によって赦されている罪人であり、他人の過ちを叱責する資格はないと自覚することだ。自分の力では難しいが、主の十字架を見上げ、愛をいただきながらチャレンジしていくとき、主は今も生きて働かれていることを、私たちを通して証ししてくださる。


『牧師と信徒の教会形成』使徒6:1~7 [礼拝メッセージ]

4月1日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 使徒の働きを学ぶ中、問題が起きた時どのように信仰的に解決するかを教えられる。初代教会では人数の増加に伴い、ユダヤ人同士の対立、やもめの配給など次々と問題が起こった。そこで使徒たちは、7人を任命し問題の解決に努めさせた。
この7人の共通点は、御霊に満ち、知恵があり、人々に信頼されているということだ。「人々」とは、信徒・教会以外の人、そして使徒たちである。また、当時の国際語である、ギリシャ語を話せるというのも必要条件だった。
 松原聖書教会の役員の選出方法も、この初代教会と同じである。また、民主主義で1人1票ではなく、最終的には牧師(使徒)の権限によって決めている。
そして、①権限委譲(いじょう)、つまり牧師でなくても出来ることは信徒に任せる。②役割分担、それぞれ任された役割を忠実に行う。③適材適所、その働きにふさわしい人が奉仕をする。
 そうすれば牧師は祈りとみことばの奉仕に集中できるのだ。これも聖書に書かれている順序通り、まず「祈り」があり、ご聖霊に頼りながら「みことば」を語るので、その逆ではない。スポーツに例えると、牧師の働きとは監督でありコーチである。みことばによって信徒を整え訓練し、奉仕の働きをさせる。一方、信徒は試合に出る選手であり、キリストの体を建て上げる「主役」だ。
 私は、礼拝こそ信徒が最も活躍する場だと思う。讃美をはじめ、実に様々な奉仕により、それに携わる信徒により、礼拝は成り立っている。先日、大きな祝福のうちに終わったマリッジセミナー、この豪華な食事も殆ど信徒によって準備されたもので、参加したご夫婦が毎回楽しみにしていたほどだ。
 このように信徒が活躍し、奉仕をする松原聖書教会では、私たちは用いられる喜びを体験でき、奉仕によって成長できるのだ。皆で一致して、イエス様にお仕えしていきたいと心から願う。 

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