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「主のみことばが,ますます盛んになり,広まって行ったのはなぜ?」使徒12:24,ヨハネ13:3 [礼拝メッセージ]

1月6日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 ヘロデ王が初代教会を迫害し,ペテロが投獄された。しかし,教会で熱心に祈っていると不思議な方法でペテロが救出され,ヘロデ王は寄生虫にかまれて死んだ。教会の祈りの勝利である。神体験をした人々の祈りはますます強くなり,みことばが広まっていった。
 長時間祈り続けることは難しい。しかし,私たちを祈りにかきたてるのは,試練・苦難・逆境・痛みである。人間の力で解決できない時,私たちは祈り,まことの神様に深く結びつく。苦難や試練は神様の恵みを知るためであり,サタンの攻撃ほど祈りの力を強めるものはない。
 祈りの難しさの一つに忍耐がある。人生には,待つこと以外何もできない時があるが,私たちが待っている間にまことの神様が働いてくださっているのだ。また,私たちの祈りが行き詰まる時や祈れない時,ご聖霊様が助けてくれ,とりなしてくださる。(ローマ8:26)
 三浦綾子さんは「真の友は祈りの友,自分の思いを知り祈ってくれる人が本当の友」と言う。人は神様との縦の関係とともに,全てを話し祈りあう友との横の関係も必要である。「互いに愛し合う」具体的なことの一つが「祈りあう」ことである。そういう友を得てほしい。
 祈りの方法の一つが合心祈祷である。二人で祈るとき,神様はその祈りを聞いてくださる。(マタイ18:19)また,神様の約束(聖書)の言葉をにぎって祈ること。わたしは「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)のみことばを握って40年祈り続けると,父がイエス様を信じ,母もクリスチャンとの交わりの中で心の変化が見られる。とりなしの祈りでは,相手がもっとも必要としていることを祈ろう。
 この年も,互いに愛しあい祈りあい,主を愛し伝えていく年となりますように。

『その方の星を見たので』 マタイ2:1~12 [礼拝メッセージ]

12月23日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

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 東方の博士たちが星に導かれ、救い主に会いに来た。異邦人である彼らは占星術も研究していたが、真理に辿り着くことはできず、生活をなげうってイエス様を追い求めた。
 星はどんな時に見えるのか?真っ暗な夜の暗闇の中、闇が深ければ深いほどその光は輝く。皆さんも迷いや悲しみなど、暗闇の中でイエス様に導かれたのではないだろうか。私も高校時代、進学校の上位クラスに入ったが、学校の名誉のためにより良い大学を目指すべき、という方針に反発し、部活に打ち込むも体を壊し退部、何のために勉強するのか?と思い悩む日々だった。そんな私にある友人が、人生相談に乗ってもらえるから、と宣教師の先生を紹介してくれた。また、ある婦人はご主人が入院中、同じ部屋に入院していたAさんの証を聞き、イエス様を知った。彼女は以前とある新興宗教の信者だったが、教祖は難病の孫のことで苦しみ悩む彼女に、心無い言葉を浴びせたそうだ。そんな中イエス様に出会い、もっと知りたいと願い、本日洗礼を受けることになった。
 このように、暗闇の中で星に導かれた私たちはイエス様に出会い、真理を見つけた。人というのは「自己中心」という罪を持つ。自分さえ良ければいい、自国さえ良ければいい、という自己中心の罪、また相手に対し過剰な期待をし、「~すべきだ」とするのも自己中心の罪である。また、人間は平等であり、その尊厳はその人の持つ能力では測れない、というのも聖書が示している真理である。
 博士たちはイエス様に出会い、来た道とは別の道を通って帰った、これはイエス様に出会い、生き方を変えられた、ということだ。私自身もイエス様を知りセルフイメージが変えられた。私たちは神の作品であり、一点ものだ、私は私でいいんだ、と。
 また、イエス様は楽天家で現実的なお方で、「明日のことは明日が心配する」、明日の心配は無用だ、今日を集中して生きよ、と仰って下さり、生き方の指針となり、「私についてきなさい」と仰って下さるお方だ。イエス様に出会った博士たちの喜びはいかばかりだったろう。ぜひイエス様から与えられた喜び、恵みを振り返り、文章に書いていただきたい。それは必ず、まだイエス様を知らない方への証になるのだから。
 
 

『虫にかまれて死んだ王』 使徒の働き 12:20~24 [礼拝メッセージ]

12月9日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 ヘロデ王はペテロを会衆の面前で殺し、自分の人気を高めようとしたが、ペテロは不思議な方法で救出される。ヘロデはがっかりし、番兵たちを取り調べ、彼らを処刑するよう命じ、そして、ユダヤからカイザリヤに行き、そこに滞在した。 
  その頃、飢饉があり、海岸べりで山地に囲まれ、耕地を持っていないツロとシドンは、敵対関係であっても、豊かな穀倉地帯を持つヘロデにすり寄り、食糧を分けてもらいたかった。ヘロデが銀のコスチュームで現れ、演説を始めた時、人々は「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続け、ヘロデは虫にかまれて死んだ。 この事件はユダヤ人の歴史家ヨセプスも記録している。
 注目したいのは、ヘロデが初代教会を迫害したからではなく、神に栄光を帰さなかったから、神に打たれたことである。つまりヘロデが自らを神としたから打たれたのである。人間の罪の根本は「自らを神とする」ことである。アダムとエバが禁断の木の実を食べた動機は「これを食べると神のようになれる」であった。ヘロデが王家に生まれたのも、ユダの国が飢饉の中でも食糧が確保できたのも全て神の恵みであるのに、ヘロデは自分を誇った。
  神は高慢を嫌われる。でも、人間誰しも自慢したい時、誇りたい時ある。誇っていい。ただ「 誇る者は主を誇れ」と書いてある。パウロは「私は他の使徒たちよりも多く働きました」と誇った。「しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」と言った。志を立てさせ、事を行わせてくださるのは主。ならば、私達は主を誇っていい。
  神の最も激しい審判は「ほったらかし」である。親はその子を正しく育てようと訓戒を与え、時にはムチを与える。それでも言うことを聞かないと「好きにしろ」と言う。これは親として最も悲しく厳しい宣告である。 しかし、まことの神は救われた私達を「好きにしろ」と放置しない。 「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と約束された。そして愛する子を訓練される。私達が高慢になるとゴツンと砕かれる。私達は自分の力で生きているように見えても、自分でどうすることもできない試練や困難にぶつかると、神に叫び求めるしかない。高慢になっても神が取り扱われるから大丈夫なのである。
  ヘロデは自分を神としたゆえに虫にかまれて死んだ。一方、イエス様は全世界の創造主、王の王であるにもかかわらず私達を救うため不自由な人間となり、私達の身代わりになり十字架で死なれた。神が人間として生まれてくださったのがクリスマスである。私達はこのイエス様のために「自分にできることを精一杯させていただきます」と示されたことを実行し、実行させてくださった主をほめたたえたい。

「ホサナ、ホサナ、ダビデの子」マタイ1:1 [礼拝メッセージ]

12月2日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 キリストの系図に「ダビデの子孫」と書かれているのは、ダビデの人生がキリストのひな型になっていることと、罪と赦しにおいて、キリストを浮き彫りにするからである。今回は、後者について考えてみたい。
 イエスが生まれる約千年前、イスラエルは国が安定し、王宮でのんびりと過ごしていたダビデは、水浴びをしていた美しい女性を見つけ、興味を持つ。彼女は、ダビデの部下であるウリヤの妻のバテ・シェバだったが、ダビデは王宮に召し入れ、深い関係になる。やがて彼女が身ごもり、隠蔽を図ったダビデは、戦場にいるウリヤを呼び寄せ、家に帰らせようとする。しかしウリヤは、戦場の仲間を思い、自分だけが良い思いをすることはできないと、家には帰らない。そんな誠実なウリヤを、ダビデは激戦の最前線に置き去りにするよう指示し、戦死させてしまう。そしてダビデは、すぐにバテ・シェバを妻とし、彼女の妊娠が結婚後のこととなるよう、完全犯罪を企てたのだった。
 そこへ預言者ナタンがやってきて、このような話をする。「非常に多くの羊と牛の群れを持っている金持ちの男が、自分の羊が惜しくて、貧しい人が大切にしている一頭だけの子羊を、旅人をもてなすために調理してしまった。」するとダビデは「そんなことをした男は死刑だ」と憤る。ナタンに「あなたがその男です」と告げられたダビデは、自分の罪を認める。神の前に悔い改めたダビデに、ナタンは神の赦しを宣言するが、こんなに大きな罪が簡単に赦されて良いのだろうか?実はこの赦しの背後にこそ、「簡単」ではないキリストの十字架の贖いがあるのだ。
 神は人間を愛している。しかし罪は受け入れることができない。その神の愛と義がぶつかったところにキリストの十字架があり、人間の罪をその身に受けることで、信じる者の罪が帳消しにされるという、驚くべき道を開いてくださった。これがダビデの赦しの根拠なのだ。
 ナタンの話を聞いたダビデは、自分のこととは思わなかった。みことばを人に当てはめるのは簡単だが、自分に当てはめるのが原則であり、そうすることで初めて、キリストの似姿に変えられていく。また、人間は自分が間違っていても、意地やプライドが邪魔をして、謝ることが難しい。ダビデがすぐに謝れたのは、若い頃から神を知り、親しく交わっていたこと、バテ・シェバのことで罪の思いに苦しんでいたこと、ナタンの言葉を神からのものと受けとったことからであろう。そうして悔い改めれたことにより、ダビデは罪から解放されたのだった。また、人間は相手が間違っていると思うと、なかなか許すことができない。ポイントは「自分も赦されている」ことを知ることにある。自分の弱さや罪、そして、そんな自分が十字架によって赦されていることを知る時、人を裁くことができなくなり、許せるようになっていくだろう。

『ありのままの自分を受け入れることのできる人』マタイ22:35~40 [礼拝メッセージ]

11月18日(成長感謝祝福式)礼拝メッセージ(野口牧師先生)より


 「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」とイエスさまは言われた。
 しかし自分を愛せない人が大勢いる。 日本の学生は他の国と比べて自分の能力に自信がない、劣等感の中で疲れを感じ自分はダメだと思っている学生が大勢いることが意識調査でわかった。ダメな自分と思うから自分自身を愛せない、隣人を愛する気力も余裕もなくしている。自分をどの様に思っているのかをセルフイメージ(自己肯定感)というが、このような人はセルフイメージが低い。たとえ成績優秀、スポーツ万能な人であってもセルフイメージが高いとは限らない。
 どうすればセルフイメージは高められるのだろう。私達もそうだが、子ども達のセルフイメージを高めるために大切なことは褒めることだ。しかし褒めるとき重要なポイントがある。子どもたちの成績や能力などを褒めること、可愛さや容姿などの外観を褒めることも大切だが、一番大切なポイントは子どもたち自身の存在を肯定し褒めることだ。これは容易な事ではない。成績や能力、容姿はその時の状況で失われてゆく不安定さを持っているが、子どもたち自 身の存在を肯定してゆくとき自分は愛されている、ありののままでいいのだという心の安定に繋がりセルフセルフイメージが高められ、目標に向かってチャレンジしてゆく子どもに育ってゆく。不得意な事があるとしても自分の成長は経験や努力によって変えられると考え、失敗を恐れない。
「あなたの隣人を愛せよ」のみことばは良好な人間関係を築いてゆくカギでもある。
 イエスさまの愛に触れ、自分自身を愛する大切さを知っている私達だからこそ、この愛を隣人に伝えてゆく。みことばにあるように自分が負うべき重荷、共に負うべき重荷を踏まえ、支えあって主の恵みをつなげてゆこう。
 今日、成長感謝祝福式が行われた。私達に与えられた子ども達が、ありのままの自分を受け入れることのできる人に成長するように神さまの知恵によって大切に育ててゆこう

「あなたは気が狂っているのだ」使徒12:1〜17 [礼拝メッセージ]

11月11日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 「こんな祈りがきかれるはずがない」と思うような祈りが、応えられた体験はあるだろうか?この箇所はまさにそのような祈りである。教会への迫害が激しくなり、中心人物であるペテロが投獄され、厳重な監視がつき、公開処刑が近づくという絶望的な状況の中で、教会は心を合わせて、熱心に祈っていた。すると主の御使いがペテロの前に現れ、外まで導いたのである。最初は幻を見ていると思っていたペテロも、神が救い出してくださったことがわかり、人々が集まって祈っていた家に行く。ペテロが戻ってきたことを告げた女中に、祈っていたにも関わらず信じられない人々は「あなたは気が狂っているのだ」と言う。
  ここからわかることの1つ目は、神は教会をあげての祈りを喜ばれるということ。ペテロが帰ってきたことが信じられなかった人々や、幻を見ていると思ったペテロと同じように、私たちの弱さに関わらず、たとえ不信仰で不完全な祈りであっても、神が用いてくださるのである。
 2つ目は「NO」という応えもまた恵みだということ。ペテロが投獄される前に、ヨハネの兄弟ヤコブは、ヘロデ王により剣で殺されている。これは「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ1:21)」とある通り、ヤコブにとっては召されることが、ペテロにとっては生きて働くことが、それぞれ益とされるという応えであった。
 3つ目は、祈りの応えには時があるということ。ペテロの救出は、まず鎖が外れ、2箇所の衛所を抜けて、門が開き、外に出るという段階があった。このように、不可能に思える祈りであっても、神に信頼して踏み出した時に、ひとつ、またひとつと、扉が開いていくことがある。
 私たちの教会の現会堂は、建築から23年経ったが、場所的にも、資金的にも、最初はとても無理だと思われた。しかし、祈りによって不思議なように道が開かれ、また「NO」だったことがかえって用いられる経験もあり、増改築という段階を経ながら、現在の形がある。まさに、祈りによって神が建ててくださった会堂である。だからこそ「会堂は道具」として、神のために大いに使うことが大切であり、礼拝、幼児園、高齢者支援、納骨室、子ども食堂と、多種多様に活用している。これからも会堂を用いて地域に仕え、証しとなる教会でありたいと願っている。

『キリストの弟子とは』マタイ28:19~20 [礼拝メッセージ]

11月4日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 イエス様は「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言われた。イエス様の弟子とは,イエス様のみことばを守る人,互いに愛し合う人である。ある牧師先生は「みことばに変えられ,妻への態度が変わり,具体的な愛の行動を示すようになった」と書かれている。
 また,イエス様は「賞賛に値するものを評価しなさい」と命じられている。子供のよい点を見つけほめよう。よいことを具体的にほめる,同じ行為に対して言い方を変えてほめる,失敗しても挑戦したことを認める。そうすることで子供のものの見方が変わり,自信がつき,周囲の人のよいところを認められるようになる。「自分自身のように隣人を愛せよ」というみことばにチャレンジしていきたい。

 戒めのメッセージや聖書のみことばを,「〇〇さんに聞かせたい」「〇〇さんが実践するべきだ」と考える人がいる。みことばは,他の人ではなく自分自身にあてはめて考えるべきである。牧師がメッセージの準備をするとき,みことばを自分自身にあてはめ,示されたことを実践するとき,みことばの力が聞く人に伝わると思っている。

ローマ15:1「力のある者は力がない者の弱さを担う」という使命が与えられ,イエス様自身がその模範になっている。健康な体は弱い人の弱さを補うため,物質的な豊かさは人を助けるためにある。
 教会の取り組みに「ジョイファミリー食堂」がある。亀田キリスト教会の松下先生から,子供食堂で地域の必要に応えることが宣教につながることを知り,開催のために準備を進めてきた。10月の第1回プレオープンには,多くの人が参加し,もりだくさんのプログラムとおいしい食事に喜んでくれた。食事を提供するだけでなく,楽しい時間を共有する場,心の栄養も与える場所になるよう,これからも教会をあげて取り組みたい。
 また,他の教会から「家の教会」について学び,恵みを受けたことに感謝し,今度は「家の教会信徒セミナー」で他の教会に分かち合っていきたい。
 皆さんも,奉仕の恵みにあずかって,イエス様の期待に応え,喜びを共にする体験してほしい。


『自分と他の人を大切にできる人』 ガラテヤ5:14 [礼拝メッセージ]

10月28日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

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 私はJF幼児園、また卒園生の保護者にむけて「子育てセミナー」を行っている。また12月8日には7中校区で行う「子育てセミナー」の講師として呼ばれている。今日はその内容を聖書のメッセージと併せて紹介したい。
 子育てにおいて大切な3つのポイントがある。一つ目は、感情を聞き取ること。親子の信頼関係とは、子どもが親に充分に甘えられること。スキンシップと、話をきちんと聞いてもらえることである。この時親は、自分の都合や期待を一方的に押しつけるのではなく、子供が何を言いたいのか、本当の気持ち、感情を聞き取ろうとし、その気持ちを言葉にすること、「反射傾聴」が大事なのだ。これにより子どもは正直に自分の気持ちを表わせて、「お母さんは私の味方だ」と信頼することができるのだ。
 二つ目は、褒め方注意。いくら注意しても出したおもちゃを片付けられない5歳の子どもに母親のイライラは募る。そんな時はまず母親が8割片付け、残りの2を「片付けようね」と声をかけ一緒に片付ける。そしてすかさず「よくやったね!」と、子どもが嬉しそうな顔をするまで褒めるのだ。そうすると子供はお母さんに喜んでもらったと嬉しくなり、成功体験を得て片付けの習慣がつく。トイレトレーニングも同じで、子供は一度に覚えない。たとえ間に合わなくても「ちゃんと口に出して言えたね」「一人でズボン下せたね」と子どもの出来た事を褒めること。決して「あれも出来ない、これも出来ない」と減点法じゃなく、加点法で「よく出来たね、自分で出来たね」と、粘り強くタイミングを見て、プラスのエネルギーを注ぎ込むこと。何も叱りつける必要はない。
 三つめは筋を通す、ということ。これは聖書の「種まきと刈り取り」の原則で、約束を破ったから外出できない、期日までに提出物を出せなくても親は手伝わない、など、本人に行動のツケを払わせること。真の変化は、時間・お金・人間関係の損失を味わうという、「痛い経験」なくしてはありえない。そうして初めて考え、行動を変えることが出来る。親は本当に子どもを愛するなら、学びの邪魔をしてはいけないのだ。イエス様ならどうするかを考え、聖書の原則に従うことが、自分と他の人を大切にすることにつながるのである。



『歴史と宗教と死生観』ヨハネ14:1~3 [礼拝メッセージ]

10月21日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 本日は召天者合同記念礼拝なので歴史の事実としての死生観を考える。客観性を目指すため専門家の意見を引用する。
 古代日本の死生観をあらわす古事記には、死は汚れ・不浄とするエピソードが載っている。 今も会葬御礼に清め塩が入っていたり、数字の4を避けたりする。その内に日本に仏教が入って来るが、釈迦は死後の世界に言及せず、阿弥陀仏の存在を説かなかった。極楽浄土・輪廻転生の教えは、釈迦の死後400~500年経って、弟子たちが作り出したものである。日本仏教の母体を築いた高僧は、あらゆる経典を釈迦一人の教えであると信じて疑わなかったのだが。
 「逆説の日本史」の著者・井沢元彦は明治維新の頃、「宗教は過去の迷信、宗教を信じるのは弱い人間のすること」とし、科学を重視し産業を発展させることを政府が主導し、宗教をないがしろにするようになった。そしてそのつけが今に回ってきて、死について何をよりどころにしたらよいのかわからなくなっているのが今の日本だと言う。

 キリスト教はどうなのか?聖書のいう最も大切なことは、イエス・キリストが私達の罪のために死なれたこと、そして三日目に復活されたことである。弟子達に現れ、多くの人達に同時に現れ、40日間地上で生活され、その後昇天された。死後の世界について言う権利のある人は死んでよみがえった人だけである。歴史学者・村川堅太郎は「世界の歴史 ギリシャ・ローマ編」の中で、「キリストが十字架にかけられた時、自分の命が危ないと逃げた弟子たちが、今度はイエス様のためにいのちを惜しまず伝道に専心し殉教の死をとげたのは、何か特別なことがなければありえない、すなわち復活は本当にあったとしか言えない」と記している。

 六年前、天に召された阪西さんは、1984年、十字架と復活のメッセージを聞いた夜に夢で走馬灯のように楽しかったこと、次に自分の罪・人に迷惑をかけたことを見、苦しくて油汗をかいた。 もしこれが地獄なら耐えられないとイエス様を救い主と信じた。それまで酒とギャンブルにつぎこんでいた時間をイエス様のために使いたいと生き方が変わった。麹菌を作る会社に勤めていたため休むことができないが、礼拝に来たいため日曜にする仕事を土曜に徹夜してやり遂げ、礼拝に来た。3000もの聖書のことばを暗唱し、定年になると教会事務の奉仕を20年間された。2012年2月に胃癌の全摘手術を受け、自分は死への備えがあるからと抗がん剤を断り、7月に召天された。
人はどんな死生観を持つかによって変わる。誰にでもいつか必ず来る「死」。死ねばすべて終わりと見るから生への執着が増す。イエス・キリストは死んでよみがえり、死後の世界・天の御国に住まいの備えをすると言われた(ヨハネ 14:1~3) 死は地上の終わりかもしれないが、天の永遠のいのちへの入口と変えられる。天の御国には安らぎと平安がある。

「主のことばは火」エレミヤ23:28〜31 [礼拝メッセージ]

10月14日礼拝メッセージ(中村牧師先生)より
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 エレミヤは神の言葉に従って、イスラエルの民にバビロンへの降伏を説いたことで、仲間から迫害を受け、最終的にはエジプトに連れて行かれるという苦難の人生を歩んだ預言者である。時には神に苦しみをぶつけながらも、自分の使命に人生をかけ、忠実に生きたエレミヤは、私に献身の決意をさせてくれた人物でもある。
今日の聖書箇所は、神が偽預言者に対して「偽りの言葉を告げるな」「神の言葉を盗むな」と叱責している所である。また「わたしのことばは火のようではないか」と言われている。今回は、私が神から火のように迫ってこられた体験について話したい。
私が献身について考え始めたのは、野口牧師から「牧会を手伝って、一緒に次の世代を育ててほしい」という言葉をいただいてからだった。だから私は、献身の決意をした時「①松原においては主任牧師にならない。②野口牧師を助け、共に次の世代を育てる。」と神に約束した。同時に、もし次のリーダーが育って私の役目が終わったら、その時はイエスの命じる所に行こうと思っていた。
そうして松原の副牧師となったが、3年ほど前から「この先、私が神から期待されていることは何か、何のために召されたのか」と悩むようになってきた。そんな中で、以前私が出張で講壇に立ち、そのような決意で献身したことを語らせてもらった教会の副牧師が、「そんな決意をさせる松原聖書教会の魅力とは何だろう?」と興味を持たれ、10年以上経ってから、当教会に研修に来られるということがあった。また昨年は、牧会者のいない教会や、山形キャラバンに行かせてもらう体験を通して、松原で当たり前のように感じていることが、実はとても恵まれ、整えられた中にいるのだと実感させられた。そこに身を置いている私に、神が「自分だけ良ければ、それでいいのか?」と語りかけているように感じた。
そんな時、右目が眼底出血で、しばらく見えなくなった。神は私をどのようにでもすることができるのだと実感し、原点に帰ろうと思った私は、エレミヤ書を読み返してみた。すると1章7節の「わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。」が示され、同時に、2022年の春に新しいリーダーが立つことを聞いて、松原から転任することを決意した。
神の言葉は火のように迫ってくるが、その目的は人を救いに導くことであり、裁くためではない。私たちには明日のことはわからないのだから、イエスを信じるのに「早過ぎる」ことなどない。神はみことばだけでなく、あらゆる出来事を通して、私たちに語りかけておられる。そんな神の火のような思いに、素直に応答する私たちでありたい。

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