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『キリストの弟子とは』マタイ28:19~20 [礼拝メッセージ]

11月4日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より


 イエス様は「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言われた。イエス様の弟子とは,イエス様のみことばを守る人,互いに愛し合う人である。ある牧師先生は「みことばに変えられ,妻への態度が変わり,具体的な愛の行動を示すようになった」と書かれている。
 また,イエス様は「賞賛に値するものを評価しなさい」と命じられている。子供のよい点を見つけほめよう。よいことを具体的にほめる,同じ行為に対して言い方を変えてほめる,失敗しても挑戦したことを認める。そうすることで子供のものの見方が変わり,自信がつき,周囲の人のよいところを認められるようになる。「自分自身のように隣人を愛せよ」というみことばにチャレンジしていきたい。

 戒めのメッセージや聖書のみことばを,「〇〇さんに聞かせたい」「〇〇さんが実践するべきだ」と考える人がいる。みことばは,他の人ではなく自分自身にあてはめて考えるべきである。牧師がメッセージの準備をするとき,みことばを自分自身にあてはめ,示されたことを実践するとき,みことばの力が聞く人に伝わると思っている。

ローマ15:1「力のある者は力がない者の弱さを担う」という使命が与えられ,イエス様自身がその模範になっている。健康な体は弱い人の弱さを補うため,物質的な豊かさは人を助けるためにある。
 教会の取り組みに「ジョイファミリー食堂」がある。亀田キリスト教会の松下先生から,子供食堂で地域の必要に応えることが宣教につながることを知り,開催のために準備を進めてきた。10月の第1回プレオープンには,多くの人が参加し,もりだくさんのプログラムとおいしい食事に喜んでくれた。食事を提供するだけでなく,楽しい時間を共有する場,心の栄養も与える場所になるよう,これからも教会をあげて取り組みたい。
 また,他の教会から「家の教会」について学び,恵みを受けたことに感謝し,今度は「家の教会信徒セミナー」で他の教会に分かち合っていきたい。
 皆さんも,奉仕の恵みにあずかって,イエス様の期待に応え,喜びを共にする体験してほしい。


『自分と他の人を大切にできる人』 ガラテヤ5:14 [礼拝メッセージ]

10月28日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 私はJF幼児園、また卒園生の保護者にむけて「子育てセミナー」を行っている。また12月8日には7中校区で行う「子育てセミナー」の講師として呼ばれている。今日はその内容を聖書のメッセージと併せて紹介したい。
 子育てにおいて大切な3つのポイントがある。一つ目は、感情を聞き取ること。親子の信頼関係とは、子どもが親に充分に甘えられること。スキンシップと、話をきちんと聞いてもらえることである。この時親は、自分の都合や期待を一方的に押しつけるのではなく、子供が何を言いたいのか、本当の気持ち、感情を聞き取ろうとし、その気持ちを言葉にすること、「反射傾聴」が大事なのだ。これにより子どもは正直に自分の気持ちを表わせて、「お母さんは私の味方だ」と信頼することができるのだ。
 二つ目は、褒め方注意。いくら注意しても出したおもちゃを片付けられない5歳の子どもに母親のイライラは募る。そんな時はまず母親が8割片付け、残りの2を「片付けようね」と声をかけ一緒に片付ける。そしてすかさず「よくやったね!」と、子どもが嬉しそうな顔をするまで褒めるのだ。そうすると子供はお母さんに喜んでもらったと嬉しくなり、成功体験を得て片付けの習慣がつく。トイレトレーニングも同じで、子供は一度に覚えない。たとえ間に合わなくても「ちゃんと口に出して言えたね」「一人でズボン下せたね」と子どもの出来た事を褒めること。決して「あれも出来ない、これも出来ない」と減点法じゃなく、加点法で「よく出来たね、自分で出来たね」と、粘り強くタイミングを見て、プラスのエネルギーを注ぎ込むこと。何も叱りつける必要はない。
 三つめは筋を通す、ということ。これは聖書の「種まきと刈り取り」の原則で、約束を破ったから外出できない、期日までに提出物を出せなくても親は手伝わない、など、本人に行動のツケを払わせること。真の変化は、時間・お金・人間関係の損失を味わうという、「痛い経験」なくしてはありえない。そうして初めて考え、行動を変えることが出来る。親は本当に子どもを愛するなら、学びの邪魔をしてはいけないのだ。イエス様ならどうするかを考え、聖書の原則に従うことが、自分と他の人を大切にすることにつながるのである。



『歴史と宗教と死生観』ヨハネ14:1~3 [礼拝メッセージ]

10月21日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 本日は召天者合同記念礼拝なので歴史の事実としての死生観を考える。客観性を目指すため専門家の意見を引用する。
 古代日本の死生観をあらわす古事記には、死は汚れ・不浄とするエピソードが載っている。 今も会葬御礼に清め塩が入っていたり、数字の4を避けたりする。その内に日本に仏教が入って来るが、釈迦は死後の世界に言及せず、阿弥陀仏の存在を説かなかった。極楽浄土・輪廻転生の教えは、釈迦の死後400~500年経って、弟子たちが作り出したものである。日本仏教の母体を築いた高僧は、あらゆる経典を釈迦一人の教えであると信じて疑わなかったのだが。
 「逆説の日本史」の著者・井沢元彦は明治維新の頃、「宗教は過去の迷信、宗教を信じるのは弱い人間のすること」とし、科学を重視し産業を発展させることを政府が主導し、宗教をないがしろにするようになった。そしてそのつけが今に回ってきて、死について何をよりどころにしたらよいのかわからなくなっているのが今の日本だと言う。

 キリスト教はどうなのか?聖書のいう最も大切なことは、イエス・キリストが私達の罪のために死なれたこと、そして三日目に復活されたことである。弟子達に現れ、多くの人達に同時に現れ、40日間地上で生活され、その後昇天された。死後の世界について言う権利のある人は死んでよみがえった人だけである。歴史学者・村川堅太郎は「世界の歴史 ギリシャ・ローマ編」の中で、「キリストが十字架にかけられた時、自分の命が危ないと逃げた弟子たちが、今度はイエス様のためにいのちを惜しまず伝道に専心し殉教の死をとげたのは、何か特別なことがなければありえない、すなわち復活は本当にあったとしか言えない」と記している。

 六年前、天に召された阪西さんは、1984年、十字架と復活のメッセージを聞いた夜に夢で走馬灯のように楽しかったこと、次に自分の罪・人に迷惑をかけたことを見、苦しくて油汗をかいた。 もしこれが地獄なら耐えられないとイエス様を救い主と信じた。それまで酒とギャンブルにつぎこんでいた時間をイエス様のために使いたいと生き方が変わった。麹菌を作る会社に勤めていたため休むことができないが、礼拝に来たいため日曜にする仕事を土曜に徹夜してやり遂げ、礼拝に来た。3000もの聖書のことばを暗唱し、定年になると教会事務の奉仕を20年間された。2012年2月に胃癌の全摘手術を受け、自分は死への備えがあるからと抗がん剤を断り、7月に召天された。
人はどんな死生観を持つかによって変わる。誰にでもいつか必ず来る「死」。死ねばすべて終わりと見るから生への執着が増す。イエス・キリストは死んでよみがえり、死後の世界・天の御国に住まいの備えをすると言われた(ヨハネ 14:1~3) 死は地上の終わりかもしれないが、天の永遠のいのちへの入口と変えられる。天の御国には安らぎと平安がある。

「主のことばは火」エレミヤ23:28〜31 [礼拝メッセージ]

10月14日礼拝メッセージ(中村牧師先生)より

 エレミヤは神の言葉に従って、イスラエルの民にバビロンへの降伏を説いたことで、仲間から迫害を受け、最終的にはエジプトに連れて行かれるという苦難の人生を歩んだ預言者である。時には神に苦しみをぶつけながらも、自分の使命に人生をかけ、忠実に生きたエレミヤは、私に献身の決意をさせてくれた人物でもある。
今日の聖書箇所は、神が偽預言者に対して「偽りの言葉を告げるな」「神の言葉を盗むな」と叱責している所である。また「わたしのことばは火のようではないか」と言われている。今回は、私が神から火のように迫ってこられた体験について話したい。
私が献身について考え始めたのは、野口牧師から「牧会を手伝って、一緒に次の世代を育ててほしい」という言葉をいただいてからだった。だから私は、献身の決意をした時「①松原においては主任牧師にならない。②野口牧師を助け、共に次の世代を育てる。」と神に約束した。同時に、もし次のリーダーが育って私の役目が終わったら、その時はイエスの命じる所に行こうと思っていた。
そうして松原の副牧師となったが、3年ほど前から「この先、私が神から期待されていることは何か、何のために召されたのか」と悩むようになってきた。そんな中で、以前私が出張で講壇に立ち、そのような決意で献身したことを語らせてもらった教会の副牧師が、「そんな決意をさせる松原聖書教会の魅力とは何だろう?」と興味を持たれ、10年以上経ってから、当教会に研修に来られるということがあった。また昨年は、牧会者のいない教会や、山形キャラバンに行かせてもらう体験を通して、松原で当たり前のように感じていることが、実はとても恵まれ、整えられた中にいるのだと実感させられた。そこに身を置いている私に、神が「自分だけ良ければ、それでいいのか?」と語りかけているように感じた。
そんな時、右目が眼底出血で、しばらく見えなくなった。神は私をどのようにでもすることができるのだと実感し、原点に帰ろうと思った私は、エレミヤ書を読み返してみた。すると1章7節の「わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。」が示され、同時に、2022年の春に新しいリーダーが立つことを聞いて、松原から転任することを決意した。
神の言葉は火のように迫ってくるが、その目的は人を救いに導くことであり、裁くためではない。私たちには明日のことはわからないのだから、イエスを信じるのに「早過ぎる」ことなどない。神はみことばだけでなく、あらゆる出来事を通して、私たちに語りかけておられる。そんな神の火のような思いに、素直に応答する私たちでありたい。

『3つの愛に生きる教会』使徒11:19~30 [礼拝メッセージ]

10月7日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 イエス様は復活の後、天に昇られる時弟子たちにあらゆる国の人々にイエス様を証しせよと大宣教命令を残された。にも関わらず弟子たちはずっと培われた選民意識からユダヤ人だけに福音を伝えていた。この殻を打ち破るために神様はペテロに幻を見せてローマ人に救いの輪が広がった。ステパノの殉死のことで散らされていったギリシャ語を話す弟子たちは異邦人にも福音を宣べ伝え出した。
 私たちは何故に救われたのか。それはイエス様の福音を宣べ伝えるという目的のためである。はっきりとした目的意識は人を生かす。使徒パウロは自分自身が福音宣教のために存在しており、彼を変えた原動力は自分の人生を献げる目的を発見したことであった。神様の願っておられることは神様の証人となり福音を伝えること。これが私たち救われた者全てに与えられた使命である。イエス様は行って福音を宣べ伝えよと言われた。例えばPTAの役員をして学校や地域と信頼関係を持つことも出ていく働きと言える。アンテオケ教会の指導者であるバルナバは人数が多くなるにつれて自身の限界を感じ協力者を求めて祈った。私たちは窮地に立った時、自力解決しようとする面と他に頼る両面が必要である。自分で負えない重荷はイエス様と助け人に一緒に負ってもらおう。
 バルナバは自分のパートーナーとしてパウロを選んだ。彼がパウロが自分を凌ぐ人物であると知りながら連れて来たのは、彼の目的がイエス様と教会のために自分のすべき事は何なのかという観点で考えたからである。パウロは「私の伝える福音は口先だけのものではなく私を変えてくれた福音でもあり、今も私の内で働く福音である」と言っている。イエス様は弟子たち自身の告白をお求めになったように、今も私たちに私たち自身の告白をお求めになっている。私たちは自分の弱さも正直に出して分かち合うことも必要である。
 リバイバルとは御言葉を通して礼拝が回復され、一人一人がイエス様の恵みを受けるだけでなく受けた祝福が教会から社会に溢れ流れていくものである。私たちの教会もジョイファミリー食堂にチャレンジする。孤食や家庭の団欒を味わえない子どもたちに場を提供し地域に仕える。まさに3つの愛の実践であり包括的宣教である。


『愛の負債』ローマ13:8~10 [礼拝メッセージ]

9月30日礼拝メッセージ(中村牧師先生)より
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 健全な人間関係を築くために金銭などの貸し借りは作らない方がいい。
 しかしパウロが言うのは人間的な貸し借りの事ではない。私達はイエスさまの十字架によって罪赦され贖われた者となった。神さまの恵み、到底返すことの出来ない大きな愛の負債がここにある。罪赦された者として全ての権威の源である神さまを認め畏れ、神さまの愛を受けた者として自分のするべき事を果たしてゆく。
 「主の祈り」にあるように罪赦された者として互いに許しあってゆこう。
 7月末、西日本集中豪雨で大被害を受けた広島へボランティアとして急に行くことになった。多くの予定があったので気持ちの余裕が無い状態で現地に行ったが悲惨な状況を目の当たりにし、自分を恥じたと同時に東日本大震災のボランティアに行った時の記憶と重なった。現地は津波の被害で考えられないほど悲惨で歩くことさえ危険な状態だった。あるお宅の泥だしに行ったが便器を撤去するため溜まっているヘドロを掻き出す時、何が混じっているか分からない汚物の中に手を入れることに躊躇した。しかしその時ご聖霊の働きによって罪という汚いヘドロの中で死を待つばかりの私達を哀れに思い、聖なるイエスさまは躊躇せず私達を捜し出し、血を流して救い出してくださる御姿が迫ってきた。自分の弱さを知り主の十字架の恵みを再確認できたことは私にとって大きな収穫だった。
 パウロの言う到底返すことの出来ない大きな愛の負債。その大きな愛を受けた者として神さまに少しでも愛を返してゆく生き方をすることが私達の信仰ではないだろうか。その事を思いだし広島でも心から隣人に仕える気持ちを込め自分のベストを尽くして活動した。隣人に仕える生き方が主に対する愛の応答であり、瓦礫の運搬作業中に怪我をしたが、そのことで現地の方の愛に触れ、互いに愛し合うことの喜びを体験したことも大きな恵みだった。
 10月に「ジョイファミリー食堂」がプレオープンする。3つの愛に生きる教会として、地域に仕える教会として地域の方々の協力を得ながら主からいただいた大きな愛の負債を少しでもお返ししてゆこう。神さまの祝福と知恵によって大きな実を結ぼう。

「ふさわしい助け手」 創世記2:18,エペソ5:33 [礼拝メッセージ]

9月23日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

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 「人がひとりでいるのはよくない」と,神様は男の助け手として女をつくられた。三位一体のまことの神様には完全な交わりがあり,その反映として作られた人間は,他の人との交わりの中で成熟する。また,まことの神様に任された世界管理は一人ではできない。立派な仕事をするには,家族の交わりに支えられ,職場でのチームワークを確立することが重要だ。
  本当の意味で夫婦が協力するために,互いの違いを知ることが必要だ。例えば,男性は敬われること・ほめられること,社会で認められることに価値を見出し,女性は愛されることを求める。男性は問題解決のために会話をするが,女性は絆を深めるために話す。女性は同時並行でいくつかのことができるが,男性は一度に一つのことしかできない。
男女の違いを理解し,生かそう。男性をほめることは,尊敬の具体的な現れである。女性は人を肯定し,受容する力が強い。女性は愛されることで心が安定し,受容力がつき,愛してくれる人のすべてを肯定するようになる。男性は女性から肯定され応援されるとうれしく思い,よい仕事ができるし,失敗しても再チャレンジできる。成功すると自信を持ち,さらに女性を愛するようになる。
このようなよい循環の中で,お互いに理解し補いあい,家庭建設・神様にゆだねられた社会の建設に励もう。

「Be Joy Family」ルカ22:31〜32、ヨブ42:1〜17 [礼拝メッセージ]

9月16日礼拝メッセージ(M執事)より

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  私は中学から教会に通うようになり、高校の時に受洗したが、大学で教会を離れてしまった。それから10年後の1995年に初めて松原聖書教会に来たが、その時の礼拝メッセージがルカ22:31〜32だった。イエスは、自分が捕まった時に弟子たちが逃げてしまうことを知っていながら、「あなたは必ず立ち直る。なぜなら私が、あなたのために祈ったから。」と確信を持って伝えている。同じようにイエスは、私が教会を離れることも知っていて、祈ってくれていたのだと語りかけられたように感じ、これが松原での教会生活のスタートとなった。
私は幼少の頃から運動が苦手で、勉強も得意なわけではなく、教会も途中で離れてしまったことから、自分に対して「何事も中途半端」というセルフイメージを持っていた。しかし負けず嫌いな面も持っており、大人になるにつれて「人の役に立たなければいけない」という価値観になり、人に何かしてもらう、世話になるということが非常に嫌だった。そんな中で辛い体験をし、ひどく落ち込んで、友人との関係もシャットアウトする状態になってしまった。松原聖書教会に来たのはその頃で、最初はぎこちなさもあったが、様々な奉仕を通して居場所が与えられていったと思う。
1996年の宣教集会で、ヨブ42:1〜17からのメッセージを聞いた。ヨブ記は37章までずっと「なぜ苦しみがあるのか」というヨブの問いかけであり、その間ずっと沈黙していた神が、38章から突然語り始めたのは「私の摂理をあなたは知っているのか」ということだった。そして、直接的な答えは分からなくても神の偉大さと摂理に信頼し、悔い改めたヨブは、以前よりも祝福される。それは失った祝福の埋め合わせではなく、ヨブを愛しているという神からの表現なのだと思う。私も、以前の苦しみの理由は未だ分からない。しかし、神の摂理に任せようと思えるようになった。
私は福祉の仕事をしており、教会でも高齢者の方が楽しめる奉仕を担当している。どちらも自分がお世話をするというだけでなく、自分自身が励まされたり、助けられたり、何より楽しませてもらえるように変えられてきた。社会学者のマッキーバーは、社会集団には「ある目的のために意図的に作られた組織(アソシエーション)」と「同じ関心や生活のあり方を持ち、自然に集まる集団(コミュニティ)」の2種類があると言う。ジョイファミリーチャーチはコミュニティであり、一人一人は神によって招かれてここにいるのだ。

『ビジョンの共有』使徒11:1~18 [礼拝メッセージ]

9月9日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 ペテロは神の幻により異邦人コルネリオの家に導かれ、人々に福音を語り、聖霊が与えられた。このように異邦人に聖霊がはたらいたことは、ペンテコステ、ピリポのサマリヤ伝道に次いで三度目である。
 何故神の幻、ビジョンを与えられたのが、イエス様より異邦人伝道に召されたパウロではなくペテロなのか?一つには、以前迫害者だったパウロはユダヤ人社会において信用と実績がなかったこともあるが、何よりペテロは、イエス様より「天国の門の鍵を開ける特権」が与えられていた。広く福音を延べ伝えたのはパウロであるが。
 このように、私たちには神から与えられた役割分担がある。幼児園・卒園生母親に対する「子育てセミナー」もそうだ。実はこれは私がやりたいと思って始めたことではなく、妻から勧められたことだった。子育てセミナーの進め方は、お母さんと一緒にテキストを学び、教えられた事を実践する、それを皆で分かち合う、ディボーションのやり方と同じである。この方法はイエス様から教えて頂いた。
 私たちジョイファミリーチャーチの目指す所は、宣教と弟子化であり、その名の通りジョイ(フル)ファミリーを作ることだ。その土台となる考え、理念にまず「主の恵みに生きる」とある。私たちはイエス様の十字架により救われ、真の神様より「高価で尊い」とされた。またイエス様は、私たちを長所からみてくださり、私たちの罪深さをご存知である「にもかかわらず」愛してくださるお方だ。
 私たちはこうして救われた喜びと感謝を持って、受け身ではなく積極的に礼拝に参加する。赤ちゃんから高齢者まで参加する主のための祭りなのだ。しかしまた、神様とは畏れと畏敬の念を持ち敬うべきお方でもある。聖なるお方であり、全てを超越するお方であるから。
罪と穢れある私たちが跪いて主を待ち望むとき、私たちに出会って下さる。そんな思いを皆さんと共有し、心からの礼拝にのぞみたい。

「叱られたペテロ」使徒10:9〜24 [礼拝メッセージ]

8月26日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 ユダヤ人は救い主が生まれる民族として選ばれ、食物規定はその純粋性を保つためのものだった。それ故イエスによって成し遂げられた後は、今度はその御業が全世界へ広がっていくために、食物規定をこわし、異邦人と食事を共にするための新たなステージになった。そのことをペテロが悟るために、神は御使いを通して、異邦人のコルネリオにペテロを招くように伝え、幻によってペテロに食物規定が無効になったことを示した。
 そして、ちょうどペテロが幻について思い惑っているところに、コルネリオの使いが到着するという絶妙なタイミングを備えてくださった。私たちの生活の中でも「タイミングを逃さない」ということは大切である。子育てを例に考えてみると、子どもが喧嘩をした時、すぐにとめてしまうのでなく、ある程度見守り、どちらかが危険なことをした時に、しっかり叱るようにと専門家は言う。そういう体験があってこそ、人と対立した時の対応の仕方や、危険な行為について学ぶことができるからだ。
 食物規定にこだわるペテロに対し、神は「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」と一喝している。人間は神の被造物であり、主権は神にある。これも子育てに当てはめて考えてみると、親がルールを決めて、しっかり守らせることが大切になる。子どもの抵抗に振り回されて親がルールを曲げてしまうのは、子どものためにならない。また、子どもを褒めることはもちろんだが、ルールに基づいて、叱るべき時にはきちんと叱ることもまた大切である。適度な挫折を乗り越えてきた人は「レジリエンス(逆境に負けない力、心の復元力)」が強くなるからだ。
 コルネリオは、異邦人である自分の所に、本当にペテロが来てくれる保証がないにも関わらず、親族や親しい友人たちを呼び集めて待っていた。それは神に信頼していたからであり、見ずして信じる信仰によるものだった。私たちはどうだろうか?神に信頼し、やるべき準備をやっていく時、神は必ず応えてくださるお方なのだ。

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