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『色メガネを外して見る』使徒の働き 14:1~7 [礼拝メッセージ]

4月7日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 今から約2000年前、パウロとバルナバが伝道旅行に行き、イコニオムでメッセージを語ったところ、大勢の人がイエス様を信じた。しかし、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちをそそのかして兄弟たちに対して悪意を抱かせ、二人を石打ちにしようとし、二人は難を避けてルステラの方へ行き宣教を続けた 真実を知らない人が一部のユダヤ人にそそのかされてパウロとバルナバを見る時に、色メガネがかかり、二人がペテン師・詐欺師・悪人に見えるようになった。私達もこの世の見方・考え方・固定概念に縛られていることはないだろうか?イエス様によってその色メガネを外す時に真実や本質が見えてくる。
 マタイ19:13~15では弟子たちが、イエス様に祈っていただこうと子供たちを連れて来た親たちを叱った。イエス様が本気で子供たちに関わるとは思ってもみなかったのである。しかし、イエス様は「じゃまをするな」と逆に弟子達を叱られた。イエス様は「天の御国は子供のようにわたしを信頼する者たちの国である」と子供たちの上に手を置いて祝福を祈られた。 5~13歳でイエス様を信じる確率は通常の5倍である。子供は豊かに成長し社会も教会も担うようになる。しかし子供は一人では来れない。子供が教会へ来るには親の理解と応援が必要である。私達は親との信頼関係を築きながら福音を伝えていきたい。クリスチャンホームでは恵みを分かち合い、朝祈って子供たちを送り出してほしい。親と教会がスクラムを組んで子供たちの成長にあたりたい。
 私はかねてから、その人の人生にたった一回限りの洗礼式に多くの人が立ち会えないことを寂しく思っていた。それが4/1~4韓国に家の教会の研修に行った時に解決が与えられた。洗礼式を礼拝の中で、滴礼でするなら、受洗者を教会員全員で主の家族に迎えられる。「洗礼は全浸礼ですべき」という色メガネを外すことできた。
 また、韓国で学んだことは、必ず「決心の祈り」の祝福をもって奉仕につかせることである。アンテオケ教会もパウロとバルナバの上に手をおいて祝福を祈ってから伝道旅行に送り出した。イエス様も40日40夜、断食の祈りをもって公生涯に入られ、一晩中祈って12弟子を選び、ゲッセマネで血のような汗を流し祈ってから十字架への道を歩まれた。祈りなくして主のための奉仕はできない。これからは「決心の祈り」はメッセージの応答だけでなく、その人が奉仕につく前にも必ず用いる。

『反対を用いられる主』 使徒 13:44~52 [礼拝メッセージ]

3月31日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 安息日に会堂で、異邦人も救われるとパウロとバルナバが神のことばを語ったとき二つの反応が起きた。異邦人達はとても喜んだ。それに対して一部のユダヤ人達は自分達だけが神様に選ばれた民族であるとのプライドから、パウロ達に反感を示した。しかし彼らの激しい反対がパウロ達を異邦人に向かわせ、本格的な異邦人宣教の始まりとなり旧約の預言が実行されたのである。ステパノの事件もしかりである。
 ネヘミヤ記からも見てみよう。ユダ王国がバビロニアに滅ぼされて140年経った頃、ペルシヤの高官であったネヘミヤはエルサレムから来た旅人らからエルサレムの城壁は荒れ果て、ユダヤ人は経済的・精神的・信仰的にも疲れ果てていることを聞いた。彼は王の了承を得てエルサレムに行きすぐに城壁再建に尽力した。妨害もあったが同胞を励まし克服し完成させた。ネヘミヤのエルサレムの荒廃を悲しみ城壁再建の原動力となったのは、当時の都市は強盗や異民族からの攻撃や侵略から、城壁が国や人々を守るためには必要不可欠であったからである。彼は王にエルサレムへの旅の安全と城壁再建のための可能な限りの援助を、神様と同胞のためにあつかましいほど求めた。神様の願っておられることの実現のためにはあつかましいほどのお願いをしていい。
 ネヘミヤが城壁再建のためにとった方法から学ぶべきことは、小分けにして分担し集中したことである。彼はこの方法で90年間完成できなかった城壁をたった52日間で再建したのである。このことはネヘミヤの類いまれなリーダーシップと敵の圧力が合わさってのことであり、正に敵の妨害さえも用いられる主のみわざであった。
 最高の脳トレとは何らかの逆境を必死で乗り越えていく経験である。私たちの脳は普段はリミッターが掛かっているが、本当に切羽詰るとリミッターが外れ火事場のばか力が出て脳が鍛えられる。だから何度も修羅場をくぐってきた人は人間としての底力が違う。このことは神様が私たちに敵や試練・課題を与えられる理由である。
 ネヘミヤは敵を打ち破るため、祈って知恵を振り絞り城壁再建とリバイバルに導いた。私たち一人一人にも与えられている課題があるのではないだろうか。また私たちの教会に与えられている課題はJF食堂とこれから始まる学びである。神様からの知恵を頂きながら皆でこの課題に向かっていきたい。


「恵みに気づけ!」マタイ20:1〜16 [礼拝メッセージ]

3月24日礼拝メッセージ(中村牧師先生)より


 マタイ18章から、イエス様が語る天の御国の説明が始まる。「天の御国では、自分たちの中で誰が一番偉いのか」と尋ねる弟子たちには、子どものように自分を低くする人が御国で一番偉いのだと答えられ、御国に入るための行いについて尋ねる金持ちの青年には、財産を手放すように言われている。それを聞いて立ち去った青年を見て「それでは、誰が救われることができるでしょう」と言う弟子たちに、イエス様は「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます」と答える。つまりイエス様が言いたいのは「救いは行いによるのではなく、神の御業による」ということ。今回の箇所もこの流れの中で話されたことであり、ぶどう園の例え話を通してイエス様が最も言いたいことは、天の御国に入るということと、その恵みの大きさに気づくことの大切さである。そこを踏まえずにこの箇所だけを見ると、不公平に感じるかもしれない。しかし、天の御国に入ること(救い)は、この箇所の例え話のように、行いに関わらず等しく与えられるが、救われた後の御国での報いについては、一人一人が天に宝を積むかどうかで違ってくるのだ。
 イエス様が十字架で命を与えてくださったのは、それほどまでに私たちのことを愛してくださっているからであると同時に、それほどまでに天の御国が素晴らしいからでもある。私たちはすでに、そこに入れる恵みをいただいているのであり、その恵みの大きさに気づくことをイエス様は願っている。
 ぶどう園の例え話で朝から雇われていた人たちは、放蕩息子の例え話の兄息子と同じように、主人と共に働く恵みに気づいていなかった。しかし、ぶどう園の主人はこの人たちに怒ったのではなく、「友よ」と声をかけている。主人はこの人たちに、恵みに気づき、それを味わってほしかったのである。「あなたはねたんでいるのですか」という問いかけには、「私とあなたの間に、他の人を入れるのか」という意味が込められている。
  私たちは、恵みが当たり前のようになり、忘れてしまいそうになる弱さを持っている。しかし主は、何度でもやり直しさせてくださるお方だ。御国のために働かせていただける恵みを味わい、喜んで「先の者」となる私たちでありたい。


『良きサマリア人になるためには』ルカ10:25-37 [礼拝メッセージ]

3月17日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 良きサマリア人から教えられる教えられることとは何だろう。エリコに行く途中で強盗に襲われ大怪我を負い道端に倒れていた人を助けたサマリア人。
 彼は隣人を助けるために必要な豊かさを持っていた。その豊かさとは大怪我をして倒れている人を可哀想にと思う心の豊かさ、手当てをして宿屋に連れてゆき介抱するために必要豊かな財力を持っていた。倒れている人を可哀想と思っても自分に豊かさがなかったら祭司やレビ人のように通り過ぎることしか出来ない。旅の途中だった彼は自分のすべき本来の目的を果たすために宿屋の主人にお金を渡し、足りなっかったら帰りに払うからと言って怪我人の介抱を頼み出かけて行った。彼のように素直に助けを求めて他の人に依存することも必要だと教えられる。それぞれが自立しているが、どうしても助けが必要なとき素直に助けを求め、お互いに助け合い支え合ってゆく健全な依存である相互依存を私達も目指してゆこう。
 また助けられた人がすべきことは何だろう。もちろんサマリア人に対する感謝も大切なことだ。でも一番大切なことはイエスさまが「あなたが立ち直ったら兄弟たちを力づけてあげなさい」とペテロに言われたように、今度は自分が困っている人を助けて受けた恵みを返してゆくことだ。それはペテロだけに言われているだけではなく私達にも言われている。助けていただいた者として一人ひとりに与えられている豊かさを用い,助けを必要としている人を助け、神さまから受けた恵みをお返ししてゆこう。一人の力は弱くてもみんなで力を出し合い知恵を出し合うとき良きサマリア人となることができるのではないだろうか。また一人ひとりがしっかりと自立し、必要なときにはお互いに助け合い支えあって素直に助けを求めることができる関係を主に在って築いてゆこう。
今日、神と会衆の前で婚約式が行われた。これからの生活の中でお互いがお互いの良きサマリア人となりますように。私達も良きサマリア人になるためにイエスさまの願っておられることを実践してゆこう。

『ピシデヤのアンテオケ伝道②』 使徒13:16~41 [礼拝メッセージ]

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3月2日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 パウロとバルナバは伝道旅行の途中で,安息日にピシデヤのアンテオケの会堂に入った。そこでパウロは聖書の歴史を説明しながら,「イエス様が旧約聖書で約束された救い主だと信じてほしい」と語った。旧約聖書は一貫して「救い主が来られる」ということを伝え,新約聖書のもっとも言いたいことは「救い主はイエス様」ということである。
 初代教会では,使徒だけではなく一般信徒が伝道し,救われる人が起こされていった。クリスチャンはイエス様を信じるだけではなく,説明を求める人にイエス様について語ることができるように,聖書のエッセンスを学んでおいてほしい。そのための学びの機会も設けたい。
 救いの歴史を見ると,まことの神様は段階を踏んでイエス様を送り,救いを完成したことがわかる。同様に,イエス様を伝えるにも段階・プロセスが大切である。私は,牧師になる前に,家の教会の牧者や教会の執事など教会のリーダーとして人を導く経験をすることが大切だと考えている。このような経験を積まず牧師になる人もいるため,教団で若い牧師を教育するためのプログラムを導入した。また,子供達を育てる教会学校スタッフになるには,アシスタントとして訓練を受け,成長してほしいと思っている。
 旧約聖書に書かれている救い主イエス様が来られたのに,なぜユダヤ人は十字架にかけたのか?それは彼らが持っていた救い主の先入観と異なっていたからである。パウロは神様に義と認められるために律法をすべて守るべきと考えていた。しかし律法を完成せてくださったイエス様と出会い,誤解と偏見から解放された。
 ご聖霊によって正しいものの見方をすることが必要である。教会や牧師を自分の偏見で理想化する人がいる。弱さや短所があっても,「イエス様の思いで他の人と交わっているか,忠実にイエス様に従っているか」という目で見てほしい。いろいろなものごとをイエス様の目で見て,イエス様のためにどう用いるか考えよう。

『ピシデヤのアンテオケ伝道①』 使徒13:13~16 [礼拝メッセージ]

2月24日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

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 「なぐさめの子」バルナバは、教会の中心的存在であり、主の器であった。しかしパウロが現れてから、バルナバは彼を皆に仲介し、引き立て、表舞台に立たせ、自らを「脇役」とした。リーダーシップを交替したのだ。
 バルナバのこの働きなくしては、パウロは大伝道者になり得なかっただろう。自分は目立たなくても、また用いられなくても、神のはたらきがなされたらいいんだ、とするバルナバこそ、正にご聖霊に満たされた人である。また彼は、若いマルコを伝道旅行に連れ出し、パウロにとりなし、教育した。このような働きは私達の教会においても必要だ。ぜひ若い人には、子ども達を育てる大切な働きである「Jキッズ」のスタッフになってほしい。ベテランスタッフから信仰の継承と共に奉仕も継承し、マルコのような新戦力となってほしい。
 私達クリスチャンの優先順位の一番は、「安息日」を守る、つまり「主の日」を守り、礼拝を捧げることだ。これは即ち、自分の人生を主にお捧げします、と信仰告白することなのだ。但し律法的にではなく、その生活を楽しみ、自分自身を充電させ、自分自身も隣人も愛せるクリスチャンになっていただきたい。
 その上で、どうか与えられた賜物を生かしてほしい。パウロは豊かな聖書知識を持つ師(ラビ)だったので、礼拝でイエス様が救い主であられることを、旧約聖書の預言に照らし合わせ、正しく伝えることができた。礼拝という与えられたチャンスを生かしたのだ。同じように私達には、4月から毎月開催される、JF食堂というチャンスがある。すでにVIPが何名も奉仕で活躍している。礼拝よりも敷居が低く、お誘いしやすい。お年寄りから幼子まで集えるJF食堂、ますます地域に用いられることだろう。さあ、あなたにはどんな賜物があるだろうか?その宝を持ち腐れにすることなく、イエス様のために大いに活用していただきたい。

『主の教えに驚嘆して』 使徒 13:4~12 [礼拝メッセージ]

2月17日、礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 教会は、聖霊の促しにより、祈りと断食をしてバルナバとサウロの上に手をおいてから二人を伝道旅行に送り出した。二人は船でキプロスに渡り宣教を開始した。島全体を巡回してパポスまで行くと、にせ預言者の魔術師バルイエスに会った。この地方の総督セルギオ・パウロは神のことばを聞きたいと思っていたが、この魔術師は反対して、総督を信仰の道から遠ざけようとした。魔術師の背後には悪霊がいる。悪霊の目的は人々がイエス様の救いを受けるのを妨害することである。サウロは聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて「悪魔の子、おまえはしばらくの間、盲目になる」と言い、彼はその通りしばらく盲目になった。この出来事を見た総督は、主の教えに驚嘆して信仰に入った。奇跡を見たからではない。奇跡を見て信じるなら、皆信じるはずである。あくまでも奇跡はみことばの裏付けである。
 セルギオ・パウロは総督として、重大な判断を下さなければならず、半端ない責任とプレッシャーを感じていた。だから霊的な力を持つ魔術師をアドバイザーとして頼った。現代の私達も霊的な力に頼りたくなる時がある。不幸やトラブル・失敗が続くと不安になる。悪魔は巧妙な仮説の名手で、日に何十回とすり寄ってきて、もっともなマイナスなことを並べて「もう、おまえは終わりだ」と言う。しかし、私達が創造者なる全能の神が共にいて下さるから大丈夫と、しっかりと立つ時、結果はいつも「神が全ての事を働かせて益としてくださる」ローマ8:28の確認となり、実地体験となる。しかも、悪魔がおどせばおどすほど私達の心は主に結びつき「主よ、助けて下さい」と越せない山も克服できる。悪魔の仮説のからくりは人・物・金・状況と目に見えるものばかり数えあげて全能の神の力を無視している。世に勝つ者とはイエスを神の子と信じる者である。 総督も目に見えるものに振り回されていたが、イエス様を信じた時、「この方に信頼していけばいい」と平安になった。
 では、クリスチャンに次々と試練がおそう時、どう対応すればいいのか?それは因果応報ではなく、あなたが苦しむ人の真の理解者、悲しむ人の慰め手となり、この傷ついた世をイエス様の元に導くためである。クリスチャンにお守りは必要ない。365日「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」とイエス様は約束して下さっているからだ。本当に感謝である。私達はみことばに驚嘆するだけでなく、全能の神の守りの中でみことばに聴き、信じ従って行き、主は今も生きておられることを体感し、人々に証していきたい。

「バルナバとパウロが(を)育てたアンテオケ教会」 使徒13:1〜3 [礼拝メッセージ]

2月10日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 ステパノの殉教をきっかけとして起こった迫害によって散らされた人々は、みことばを宣べながら巡り歩き、その結果、福音が異邦人にも広がっていった。その中で生まれた教会のひとつがアンテオケ教会である。この教会に派遣されたバルナバは、包容力や慰めといった人格的賜物を持ち、バルナバが同労者として連れてきたパウロは、聖書学者として非常に優秀な人物だった。この2人のチームワークによって、アンテオケ教会は育てられ、世界で初めて、信徒たちが「クリスチャン(キリストに従う者)」と呼ばれるようになった。
「教会」とは、神に選ばれ、救われた人の集まりである。聖書は、教会はキリストのからだであり、信徒たち一人一人は、キリストを頭とするからだの各器官だと言っている。そして、イエスの愛の対象は、私たち個人であると同時に、教会だと言っている。
 教会の使命は、大きくは
 ①礼拝(神を礼拝する信徒の交わり)
 ②宣教(全世界に出て行って福音を伝える=自分の置かれた所で、与えられた役割に精一杯取り組むことが証しになる)
 ③弟子化(主にあって人生を管理し、み言葉実践を通して、キリストに従う)
 ④社会的責任(世の光として地域に仕える)であり、これに取り組むことが教会を愛する、仕えることにつながる。

エペソ4:11〜13に、牧師の役割は「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるため」とあるように、教会を建て上げてゆく人は信徒たちであり、その力は奉仕にある。そのために、私たちは一人一人、異なった賜物が与えられている。ローマ12:6〜8に、
 ①預言(言葉を用いてみことばを伝える)
 ②奉仕(体を使って、実践的な働きをする)
 ③教える(様々な形でみことばを伝える)
 ④勧める(慰めや励まし)
 ⑤分け与える
 ⑥指導する
 ⑦慈善(共感を持って、人の痛みに寄り添う)の7つの賜物の種類が挙げられている。
また、①Situation(状況)、②Heart(志)、③Ability(能力)、④Personality(人格)、⑤Experiense(経験)の頭文字を取って「SHAPE」と分けることもできる。そして、自分の賜物を見分けるには「①楽しい、好き、②成果が出る、③他の人からも認められる」がポイントとなる。クリスチャンは全員が天国に行ける。しかし、それぞれに与えられた賜物をどう使ったのかによって、報いは違ってくるのだ。
アンテオケ教会を育てたのはパウロとバルナバだが、逆に言えば、彼らの賜物を活かし、用いたのは教会であり、この実践により訓練されて、彼らは世界宣教に派遣されて行った。賜物は使えば使うほど増え、使わなければ取り去られるのが原則である。賜物は多様性と個性があるが、必ず全員に与えらている。自分の賜物を、教会のために使っていこう。それによって更に豊かにされ、喜びと祝福が与えられるのだ。

『神の子ども』マタイ5:1~12 [礼拝メッセージ]

1月27日礼拝メッセージ(中村牧師先生)より
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 「天の父なる神さま」そう呼ぶだけで私達は神さまとつながることができる。自分の罪を認めイエスさまを救い主と信じ受け入れ、神さまとの正しい関係の中で祈り聞き従うとき、私達の傍らに立って寄り添い「わたしの愛する子ども」と神さまは呼びかけてくださる。
 イエスさまの山上の説教は神の子とされた者の特徴と生き方が集約されているのだ。
私達は神のしもべではあるが、イエスさまを信じる信仰によって神の子とされた者でもある。
 しもべと子ども(家族)では立場が全く違う。私達は神さまにとってかけがえのない子どもであり神の家族として愛されているのだから。 神さまは父として時には厳しい訓練をされる事もあるが、私達を常に見守り育んでくださっている。 たとえ私達がどんな状態であっても、私達の存在自体を父なる神さまは親として喜んでくださっている。 だからしもべのような消極的な生き方ではなく、神の子どもとして積極的な生き方をしてゆこう。
 理不尽と思う事が起きたとしても、イエスさまが「行け」と言われるなら信じて従ってゆくとき神の力が与えられる。 前向きに一歩を踏み出すとき、私達に与えられた御聖霊によって今まで以上の力を出すことができる。私達に与えられた神の子どもとしての特権を余すところなく活用し、みことばにあるように求め続け、探し続け、たたき続ける信仰の歩みをしてゆこう。
 イエスさまがヨルダン川で洗礼を受けられたとき、父なる神さまの愛する子として受けられた御聖霊が私達にも与えられている。神の国とその義を求めて一歩踏み出すとき、神の子として与えられている内住のご聖霊が力を発揮して神さまのみわざを行う者としてくださる。これがみことばの約束であり私達の信仰なのだ。たとえ失敗しても神さまは私達に絶えず寄り添い、背後から手を差し伸べ脱出の道へと導いてくださる。
 わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい
                         ヨハネ13:34
かけがえのない愛する子と呼んでくださる神さまの恵みに感謝し、神の子として積極的な 生き方にチャレンジし一人ひとりが喜びをもって隣人に仕え、神さまの栄光を現す者としてくださいますように。

『わたしがあなた方を愛したように』ヨハネ 13:34 [礼拝メッセージ]

1月20 日(野口牧師先生)より
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 真の神様への愛はその人の持つ赦しの実感に比例し罪の自覚から来る。自分の罪の自覚が増すほど神様の恵みもはっきり見えて、その感激が奉仕の心を高める。パウロは正にこの証人である。熱心なパリサイ人であったパウロはクリスチャンを迫害しステパノをも殺したが、ダマスコで復活のイエス様とお出会いし、これまでの人生が逆転して異邦人伝道の使徒となったのである。パウロは祈りの中でイエス様の十字架と復活は自分の為であったこと、またこんなひどい迫害者であった者が赦され異邦人への使徒としての使命が与えられたことを思うと、全力でこの使命に生きなければならないと思ったことであろう。
 パウロはイエス様に習う者としていつも一番指向であった。イエス様の愛に感じて誰よりも一番多く働きたかった。私たちも置かれた所で一番弟子を目指していきたい。私たちは神様に創られたオンリー1、自分のできるベストを尽くしてその結果一番になれたら良い。
 神様に用いられる人の条件はただ一つ、イエス様を愛するということ。イエス様に従うと言ったペテロも結局はイエス様を裏切ってしまった。しかし復活の主として現れたイエス様はペテロを責めるのではなく「あなたはわたしを愛しますか」と確認され、その上用いられたのである。イエス様への愛が確かであるならば例え失敗したとしてもどこまでも用いてくださる。
 私たちクリスチャンの交わりは三位一体の真の神様を中心とした、主にある家族の交わりである。神様を抜きにした人と人との交わりは本当の意味で分かりあえなくなるが、信仰者の交わりは真ん中に真ん中に、イエス様にイエス様に、近づけば近づくほどお互いが近づいていく神中心の交わりであり、主にあって互いに愛し合い与えあう愛の交わりである。イエス様が祈りから力を得られていた様に私たちも互いに愛し合うことを祈りを通してまた、ご聖霊の力を頂きチャレンジしていく。主にあって互いに愛し合い行動を起こしていく時、そこに大きな祝福が生まれるばかりでなく自分自身をも幸せにする。
 イエス様は私たちに不正の富で自分の為に友を作りなさいと言われる。不正の富とは私たちが自分の物としている全てのものであり、実は神様からの一時的な預かりものであるにも関わらず自分の物のように錯覚しているところに不正があるということである。しかし主はそれを三つの愛のために用いよと言われる。主の家族を愛しまだイエス様を知らない人の為にその不正の富を多いに活用せよと命じておられるのである。

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